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2016年5月1日日曜日

日常のことば、朗読のことば

私たちは生まれて以来、ことばを聞き、話し、たえず発音・発語の練習をしながら成長してきました。朗読表現では、その私たちが使いなれたことばを使います。
 では、日常で使っていることば・発音・発語と、朗読表現でもちいることば・発音・発語とでは、なにがどう違うのでしょうか。それともなにも違いはないのでしょうか。
 私たちが日常で使っているのは「自由言語」であり、社会共通の約束ごととして学習し、身につけてきたことばであるとはいえ、基本的に自由に制約を受けずに――あるいはそのように信じながら――話しています。
「今日はどうしてたの?」
「なんかねえ、起きるのがつらくて、一日調子よくなかったんだよね」
 というふうに。
「吾輩は猫である。名前はまだない」
 というふうには話しません。
「今日はどうしてたの?」
 ということばを自分の表現として表情たっぷりに相手にたいして用いることはたやすくできます。あなたがそのように発語するとき、相手は「自分のことを心配してくれているのかな。興味を持ってくれているんだな。コミュニケートしようとしてくれている」ということを、無意識にせよ受けとっています。つまり、ことばの「意味情報」だけでなく、そのことばがどのように話されているのか、という「メタ情報」も含まれています。
 現代朗読では、そこになにが書かれているのかという意味情報だけでなく、朗読者がそれをどのように読むのか、そしてそこにはどのようなメタ情報でこめられているのかを重視します。
 メタ情報には朗読者の感情や身体性、ありよう――つまり彼の生命活動そのものがいきいきと含まれることが、現代朗読のめざすところです。
 いまこの瞬間の自分の生きているありようを、自由言語ではなく文学作品の文章に乗せて表現する……これを実現するためには、作品のことばを自分の表現材として自由自在に使えるようにしておく必要があることは想像できると思います。
「吾輩は猫である」
 ということばを、まるで「今日はどうしてたの?」とおなじくらい、自由にメタ情報をこめて使えるようにするにはどうしたらいいのか。
 意味や文脈にとらわれることなく、また作者や作品のイメージに拘束されることなく、日本語の発音発声や社会性などさまざまなルールに縛られることなく、表現の材料として自在にあつかえるようにしておきたいのです。
 それはたとえば、演奏家が曲をすみずみまで知りつくし、どのようにでも表現できるように弾きこなす練習をしておくようなものです。

体験参加可「朗読生活のススメ」(5.7)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。5月7日(土)のテーマは「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」。