ページ

2016年4月3日日曜日

桜まつりの中野まで韓氏意拳の稽古に行ってきた

水曜夜は中野で内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会がおこなわれることが多く、なるべく参加するようにしている。
先日の水曜日は、行ってみたら、常連の方のほかに、知り合いがふたり体験参加で来ていて、びっくりした。
その前の週の日曜日に羽根木の家でおこなわれた「身体表現者のための韓氏意拳講習会」に参加したふたりで、どうやらかなり興味を持ったらしい。

初体験参加の人たちがいたということで、最初の形体訓練と平歩站椿から順番に稽古。
今日は楽勝かなと思っていたけど、そこはそれ、武術の稽古に「楽」なんてことはない。
内田先生の指導も、こちらの稽古の進度に応じて、どんどん要求が高まってくる。

この日はとくに、平歩站椿の最初の「式」である挙式と抱式で深い要求があった。
要求といっても、やるのは自分なので、先生にいわれたからやるという意味ではなく、深い集注への方向を示され、そちらに向かってとにかくやってみる、ということだ。

ただ手を挙げるだけの「挙式」という站椿のなかで、実際の自分の身体がどこまで見えるか、身体の声をあまさず聞きとることができるか、深い集注にともなって身体が武術的にまとまっていく様子を感受できるかどうか。
ある程度稽古が進んでくると、隙が許されない武術的な厳しさと同時に、未知の自分の身体と存在そのものが立ちあらわれてくる興味深さのとりこになる。
おもしろくてしようがない。
だから、つらく厳しい稽古に立ちたくなる。

この日、内田先生がなにげなく漏らしたひとことに、思わず笑ってしまった。
「時々思うんだけど、私はいったい何を教えてるんでしょうかね。みんなもともと持っているものなのに」

たしかに、韓氏意拳で学び追求しているものは、私たちの身体にもともとすでに備わっているものだ。
しかしそれらは現代生活や社会システムのなかで隠され、見えなくなってしまっていて、自身本来の身体の可能性を私たちは表現できなくなっている。
それをあらためてつまびらかにする必要があるから、稽古をするわけだ。
私にとってこの稽古の時間は本当に必要で、貴重なものとなっている。


身体表現者のための韓氏意拳講習会(4.15)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を4月15日(金)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。