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2016年4月13日水曜日

「それはおれの仕事じゃない」のニーズ

私も時々いいそうになってしまったり、実際にいってしまったりすることがあるけれど、なにか(自分にとって)つまらない仕事をいやいややっているとき、
「これは自分の仕事じゃないよな」
と思ったり、表明してしまうことがある。
そんなときの自分のニーズはなんだろうか。
と探す前に、そのときの感情を見てみよう。

つまらない、ちょっと憤慨している、理不尽を感じている、もったいない、いらいらしている、窮屈だ、孤独感もあったりするかもしれない。

シチュエーションとしては、たとえば、なにか仕事をだれかから頼まれたとする。
ほんとうは自分でなくてもだれでもできそうな仕事なのに、自分がやらざるをえない状況にあって、いやいややってしまっている。
自分はもっと自分の能力をめいっぱい使う仕事をやりたいのに、こんなつまらない仕事に時間を取られてしまっている。

「お客さんが来たのでお茶を出してくれない?」
「この書類のコピーを取ってくれない?」
「イベントの会計報告を作ってくれない?」

自分のなかにあるニーズは、そんなつまらない仕事をおれに頼まないでよ、ほかの人でもいいでしょ、という、「配慮」かもしれない。
自分の能力をもっとめいっぱい使いたい、という「能力」のニーズかもしれない。
時間を浪費していることにたいする自分の「命や時間の尊重」のニーズかもしれない。

しかし、よくよく見ると、そのニーズは本当のニーズでないかもしれない。
「こんなの、おれがやるような仕事じゃないよ」
という怒りをともなう「判断/思考」のなかに、自分の本当のニーズが見えなくなってしまっている可能性もある。

いったんそこに立ちどまり、呼吸をととのえ、マインドフルに自分自身を把握し、現れている判断や思考を俯瞰してから、もう一度ニーズにつながりなおしてみる。
すると、つまらない仕事だと思っていたことが、じつは相手にとっては大事なことであり、こちらに頼んだというのは相手にとってとても勇気のいることだったり大切なことだったりするかもしれない。
その仕事が「重要/つまらない」という判断を手放したとき、その仕事を自分がマインドフルにおこなうことによって生まれる相手への「貢献」や「つながり」、自分自身の「誠実さ」「(あらためて)能力」といったニーズとつながることはできないだろうか。

私たちがつまらないと思っているどんな仕事でも、それは必要があって生じていることだ。
だれもやってくれないトイレ掃除を、もし自分が「それは自分の仕事じゃない、だれかの仕事だ」と思ってやらないでいるのと、「自分の仕事かもしれない」と思って積極的に向かうのとでは、そのあとで起こるなにかが違ってくる。
それはだれもが容易に想像できることだろうと思う。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19〜21時です。