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2016年3月8日火曜日

人にとって「表現すること」が必要な理由

広くとらえれば、どんな人も生きている以上、かならず表現しているともいえるが(仕事したり話したり歩いたり料理したり)、狭義のいわゆる「表現行為」といわれるものにチャレンジすることでさまざまな気づきがあったり、世界の見え方そのものが変わってしまうことがある。
すべての人が表現行為をおこない、表現者をめざすとき、ひょっとして世界は大きく変わるのではないか、というのが私の持論だ。

表現行為のなかでももっとも敷居が低く、かつ奥行きも深いのが、「朗読」という表現行為だ。
ここで強調しておきたいのは、「伝達」としての朗読ではなく、現代朗読に代表されるような「表現行為」としての朗読に注目している、ということだ。

音楽が楽譜を伝えることが表現の目的ではないように、あるいは絵画が対象のモデルや静物や風景を伝えることが表現の目的ではないように、現代朗読もお話を伝えることそのものを目的とはしていない。
他の表現行為の目的がそうであるように、現代朗読も自分自身のいきいきとした生命存在を表現し、そのことで他者とつながりあうことを目的としている。

このような表現行為にはいっていくとき、必然的に表現者は自分自身をどのようにとらえるかという問題に直面する。
自分自身とはなんなのか、いまどんな感じなのか、ここにある生命はいまどのように動きたがっているのか、あるいはなにを必要としているのか。

ひょっとしてそのことを直視することに怖さや恐れを感じる人もいるかもしれない。
むしろ多くの人がそのことから目をそむけて、日々のルーティーンや社会的役割を演じることで表面的に生きているといってもいいかもしれない。
しかし、忘れたくないのは、私たちはたった一度きりの自分自身の人生を、いままさにこの瞬間に生きているのであり、そのことに気づきつづけていることこそ自分の人生を生きることにほかならない、ということだ。

表現行為ではまさに、いまこの瞬間の自分自身を見つめ、把握し、気づきつづけ、そして表現することをおこなう。
自分自身の人生を生きるということのエッセンスが、表現行為をおこなっている瞬間にあらわれるのだ。
エッセンスを強烈につかみつづけることで、表現行為を離れた日常の時間においても生活のクオリティが劇的に変質していく。
そのことは私自身の実感として、ここにある。

とはいえ、私も最初からそのような実感があったわけではない。
表現が社会的に規定された技術的優位性や情報伝達の効率をもとめるものではなく、自分自身の生命の闊達さにアクセスし、それを取りだし、そこに提示する行為であるということに気づいたのは、遅まきながら年齢にして50歳をこえるあたりのことだった。
以来10年近く、ようやくこのごろ、自分自身のなかにどのような闊達さがあり、輝かしい生命の働きがあり、それがどのように表出されたがっているのかに、わずかながら気づけるようになってきた。
これをさらに深め、もっともっとのびやかな表現を進めていけたらと思っている。

そのような世界にすべての人がはいってみればいい。
自分自身のありようをふくめ、風景と時間の感覚ががらっと変わることがわかるだろう。
それは朗読という、非常に簡便な、だれにでもできる表現行為でも、もたらされる感覚だ。
その感覚をつかまえたら、自分の人生がいかに貴重ですばらしいものであるか、同時に他者の人生も、すべての人々の存在も、それぞれ貴重でかけがえのないものであるか、だれもが気づくだろう。

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