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2016年2月12日金曜日

たとえ敵でも、理不尽な人でも、相手は人間である

自分に都合がわるいことをやらかしてくる相手のことを、私たちはつい「敵だ」とレッテルを貼ってしまう。
こちら側には安全のニーズがあり、相手と距離を置いたり、場合によっては関係を断ち切る必要もある。

共感的コミュニケーションにおいて忘れたくないのは、そういうシチュエーションにおいても、相手側にはなんらかのニーズがかならずある、ということだ。

たとえば、かつて親しい関係にあった男女が、なんらかの理由でいまは決別している、ふたりの間ではもう連絡を取り合わない、という約束ができている。
にも関わらず、男性の側が女性のほうに「相談したいことがある」といって連絡してきて、応じないでいるととてもしつこく電話がかかってきたり、メールやら郵便が送りつけられてくる。
電話は取らないようにしているのだが、メールや郵便は一方的に届いてしまって、そのたびにとても嫌な気持ちになる。
約束が守られないことに不信感を抱き、誠実さが感じられず、怖くなってしまう。

こういう場合、女性の側は相手の男性のことを、自分にしつこくまとわりついてくる犯罪者か病人のように感じてしまって、恐怖心や不安な気持ちで毎日がうつうつとしてしまう。
こんなとき、どうすればいいだろう。

まずは自分のニーズに深くつながって、自己共感しておくことが第一であることはいつも書いていることだが、相手にもニーズがあるということを思いだすことも必要だ。
この場合、安全、安心、誠実といったニーズだろうか。

あの人は自分の敵だ、嫌いな人だ、苦手な人だ、関わりたくない人だ、と思っている相手のことを、私たちは「人」として見れなくなっている。

自分のことを振り返ってみればわかると思うが、もし自分がなんらかの精神的疾患にかかってしまったとしたら、どうだろう。
重いうつ病にかかったり、統合失調症におちいったり、若年性アルツハイマーにかかったり、あるいは若年性でなくても老齢にさしかかって認知症になったり。
そんな自分を想像したとき、その自分が「人でなくなる」なんてことはあるだろうか。

どのような状況であっても、たとえ自分自身を見失ってしまうかもしれない重度の精神障害であったとしても、私たちはあくまで「人」としてそこにいる。
そしてそのような状態なりのニーズがあり、それを満たそうとして生きている。
そのことを、相手にも置きかえてみればいい。
相手がどれほど自分にとって都合がわるいことをしていても、敵対していても、攻撃的であっても、かならずそれは「人」のすることであり、相手を人間として見て、そのニーズを推測できるかどうか。

どんな相手とも人と人としてつながれるというのは、結果的に自分を守ることになる。
また、自分の必要とすること――安全や尊重のニーズ――を相手に伝えるチャンスが高まる、ということでもある。

元彼のことをストーカーだと思いこんでいる彼女も、相手のニーズを推測し、それを聞くことができるかどうかで、自分の安全のニーズが満たされる可能性が大きくなる。
相手はただ、自分が悩んでいること、寂しく思っていること、あるいは苦しい状況にあることを、だれかに聞いてもらったり、知ってもらったり、そしてつながってもらう必要があるだけなのかもしれない。
自分のそのニーズに気づいたとき、彼はおそらく、彼女にしかそのニーズを満たせないといういわば「執着行動」を、別の行動に置きかえられることにも気づくかもしれない。、
自分のニーズを満たす方法は、ほかにもいくらでもあることに気づくかもしれない。
そうなれば、結果的に彼女は自分の安全のニーズを満たすことができるだろう。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(2.19)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を2月19日(金)夜におこないます。