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2016年1月23日土曜日

やらなきゃいけない、という思いに隠れている怖れ

私のところには朗読や演劇など、声優や役者、あるいはそれをめざしている人が来ることが多い。
私は時々、彼らのなかに強い「怖れ」がひそんでいることに気づくことがある。
そしてそのことに、彼ら自身は気づいていない。

たとえば、よりよい表現者になることをめざしたり、仕事を獲得したいと思ってがんばっているのに、練習に身がはいらない。
ボイスサンプルを作らなきゃと思っているのに、気が乗らない。
自分がなにをしたいのかわからなくなってしまって、毎日ぼんやりしてしまったら、アルバイトなど別の仕事をやたらと詰めこんでスケジュールを埋めようとしてしまう。

これは表現者にかぎらず、一般のサラリーマンや主婦でもいえることかもしれない。
自分がなにをしたいのか、なにを生きがいにしたいのか、なにが楽しくて毎日すごしているのか、見えなくなってしまって、頭がぼんやりしたり、動きにキレがなくなっている。
そういう状態は私にもおぼえがある。

先日、げろきょのゼミ生のひとりからそういう悩みを打ち明けられたので、共感を試みた。
「やる気が出ないんだね?」
「はい」
「なにをやっても楽しくない?」
「はい」
「やらなきゃと思ってることがあって、それをやろうとするとつらくなるの?」
「辛いし、面倒くさい。やる気が起こらなくてだるいんです」
「それをやることに抵抗がある?」
「あります」
「こわい感じがする? そこに怖れはないだろうか」
すると彼女は一瞬、はっとした顔になった。
「たしかに怖いのかもしれません」
「きみが怖いと感じるのは、自分が努力しても思うように成長する実感がえられなかったり、人からそれを認めてもらえないと怖れているからかな?」
「そうかもしれません。いくらやっても自分が思ったようにならないことが怖いんです」
「きみには成長のニーズがある? あるいは認めてもらうことが必要?」
「必要ですね」

などとじっくり共感していったら、彼女が最後につながった自分のニーズは「気楽さ」と「能力」だった。
自分に必要な能力がそなわって、楽々とリラックスして仕事や挑戦に向かえるようになりたい、という。
そこにつながることができたら、彼女のもやもやはすでに解消しはじめているといっていいだろう。
自分のニーズがはっきりと見えていれば、そのニーズを満たすために自分が取るべき行動もはっきり見えるし、またその手段も多様にあることがわかってきて、行動の選択肢も増える。
ぼんやりした状態から脱し、キレのある毎日の行動が生まれてくるだろう。
また、自分自身の生きがいや、もともと感じていた楽しさもよみがえってくるはずだ。

めんどくさい、怖い、不安といった漠然とした感情があるとき、その背後に自分のどんなニーズがあるのか、自分で探してみるのもいいし、だれかに聞いてもらっていっしょに探してもらうのもいい。
自己共感をふくむ共感のスキルをあげる方法はさまざまにある。

共感カフェ@羽根木の家(1.29)
1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。