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2015年10月25日日曜日

未知の自分にダイブする方法としての朗読

昨日の朗読表現基礎ゼミには、体験参加の方がふたりいらした。
内ひとりは二度めの参加だったのだが、昨日は速攻でゼミ生になってくれたのでうれしい。

初めて来られた方は、多くの方がそうであるように、ネットで「朗読」と検索して、現代朗読協会を見つけてとのこと。
そういう方には最初におことわりしておく。

現代朗読とは「表現アート」のひとつであり、そういう意味では音楽やダンスなどのパフォーミングアートと同じ位置づけてあること。
朗読することによって「自分を表現する/伝える」ことが現代朗読の主眼であり、テキストの「伝達」が目的ではないこと。
朗読はダンスなどと同様の身体表現であり、「いまここ」の表現者の身体性が表現のクオリティを大きく左右するとかんがえていること。

そんなことをお伝えする。
この時点で「あてがはずれた」という顔になる方もおられる。
幸いなことに、昨日の方は「朗読にそんなアプローチがあるんだ」とおもしろがってもらえたようだった。

ゼミでも体験でもいつもいっていることだが、リアルタイムにおこなわれるパフォーミングアートである以上、いまこの瞬間の自分自身のありようがもっとも重要になる。
いかに自分自身を繊細にとらえ、いかに注意深く表現に向かえるかどうかが問われる。
現代朗読では、そのための感受性と身体性を整える練習を、厳しくおこなう。

昨日もゼミなので、いつもゼミでやっている基礎トレーニングを実際に体験してもらった。
昨日の方々に限らず、多くの人がそうなのだが、実際にやってみると、いかに自分が動けず、感じとることでできないのか、ぼろぼろと気づきが生まれる。
その「自分の足りない部分」が、稽古の余地となるわけだ。

なにか自分の外側に目標を設置して(上手に読める人とかカッコよく読める人とか憧れの人など)、それに向かってなにかを加える練習をするのではなく、自分の中で足りない部分を埋めていく練習をする。
したがって、だれかと比較するといったような外側の評価基準はない。
自分のことは自分にしかわからず、その評価基準は常に自分のなかにある。
そして自分とは、いまなにができてなにができないのか、まったく未知の存在であり、すべては実際にやってみるしかないのだ。

現代朗読協会に朗読を学びにやってくる人が多いが、ここでやっているのは朗読行為という表現ツールを使って、自分自身を知ったり高めたりする試みをやっているといえる。

現代朗読協会ではゼミや講座など、どなたでも気楽に体験参加ができるように窓を開いています。
11月の体験参加可能なイベントは、こちらをご覧ください。