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2015年6月24日水曜日

私が「あて書き」の好きな理由

来月・7月末にゼミ生の唐ひづるとサラヴァ東京のオープンマイクに出ることになっている。
せっかくなので、唐ちゃんのために「あて書き」をしようと思っている。

「あて書き」というのは、特定の役者や朗読者のために脚本家や作家が彼(あるいは彼女)をイメージして「こういうものを読ませてみたい」とスクリプトを書くことをいう。
私はこのあて書きがけっこう好きで、かなりたくさん書いている。

ラジオ番組の制作にたずさわっていたとき、特定のナレーターに読んでもらうことを前提にしたスクリプトを毎週書いていた時期がある。
シナリオというより、それはほとんど短編小説といっていいもので、ナレーションというより朗読といったほうがいい、つまり「表現」コンテンツだった。

自分が書いた小説なり原稿なりが、もう一度音声コンテンツとしてナレーターや役者の表現として立ちあがる。
そのとき、自分のイメージどおりにコントロールしようとして、読み手に注文をつける書き手がいるが、私はほとんどそういうことはしない。
むしろ、読み手がこちらのイメージをどう裏切ってくれるか、思いもかけない表現として立ちあがってくるのを見るときに、無上のよろこびを感じる。

なので、私にはたくさんのあて書き作品がある。
といっても、いったん書きあがったものは、最初に読んでもらうことをイメージした相手でなく、別の読み手に読んでもらってもおもしろいのだ。
またちがった表現が立ちあがってくる。
それが楽しくてしかたがない。
私は書くことも好きだが、それが読まれて音声表現になっていくことはもっと好きだ。

さいわい、私は現代朗読協会という団体を主宰していて、それはこじんまりしたものだけれど、ゼミ生というかなり密度の濃い音声表現者の集まりである。
彼らにあて書きをすることは、私にとって大きなよろこびのひとつだ。

今回は唐ちゃんにあて書きだ。
すでにシチュエーションはおおかたできあがっている。

そしてあさって26日(金)夜は、キッド・アイラック・アート・ホールのギャラリースペースで「沈黙[朗読X音楽]瞑想」の公演をおこなう。
これはあて書きではないけれど、まだだれも読んだことのない私の長編小説『ストリーム』から、抜粋・構成したものを野々宮卯妙に読んでもらうことになっている。
つまり初演というわけだ。
こちらも楽しみだ。

あさって夜の「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演の詳細はこちらをどうぞ。まだまだ残席あります。