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2015年6月16日火曜日

私たちはなにかを読むとき、必ず「読まされている」ということ

先日おこなったオーディオブック収録製作コースの5回めから、記録映像の一部を抜粋して紹介します。
映像はこちら

現代朗読では「表現の主体」はテキストでも著作者でもなく、朗読者自身であるというかんがえかたで表現のクオリティを追求していきます。
そのとき問題になるのが、朗読者がテキストに引きずられ、表現主体である自分自身をうっかり手放したり、揺らいでしまうことがよくある、ということです。

簡単にいえば、私たちはなにかを読むとき、かならずその文章に「読まされ」ようとしています。
「羅生門」を読むとき、無意識に羅生門っぽく読もうとしたり、老婆のセリフをいうとき、無意識に老婆っぽい口調をなぞっていたり、つまりそういう「読みの構え」を自分が無意識にとってしまっていることに気づいていません。

自分がなにかを読むとき、その文章から読まされようとしていないか、外部由来の読みの構えを作ってしまっていないか、いまこの瞬間の自分自身はどのような感じがあるのか、自分の表現・生命活動そのものはどんなふうに生き生きしているのか、という方向に繊細な目を向けていく必要があります。
そうでなければ、表現主体が自分ではなく外側に持っていかれてしまうのです。

そのようなことをこのコースで話しています。
朗読やオーディオブックの収録の世界ではかなり特殊で、わかりにくい話かもしれません。
でも、とても大事なことです。