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2014年12月9日火曜日

輪にはいることの違和感(というかほとんど恐怖心)

あんまりこういう人はいないと思うのだが、自分のことで気づいたことがあるので、書いておこうと思う。
個人的な話なので、興味がない方はスルーしてください。

なにかのワークショップなどに出るときに、平等や公平性、フラットな関係性、お互いの顔が見える関係性を大切にするために、講師をかこんで全員が輪を作ることがある。
私がおこなうワークでもそういうふうにすることが多い。
実はこれが苦手なのだ。
正確にいえば、この輪にはいることに強い違和感があって、それはほとんど恐怖心に近いものがある。

今回IITに参加して、コミュニティ・ミーティングという大きな輪になっておこなうイベントがあったのだが、これは100人という巨大な輪だ。
ここにはいることにはかなりの抵抗があった。
幸い、音響担当がいないということで、ミキサー卓のところに張りついてマイクの音量の調整など音響関連の仕事をすることになったので、輪から抜けることができた。
とてもほっとした。

この感じは身に覚えがあった。
高校生のとき、朝礼のときに全員整列して校歌を斉唱するのだが、私はピアノが弾けるのでピアノ伴奏を担当していた。
整列から抜けてピアノに向かっていることがどれだけうれしかったか。

私が必要としているのは、どうやら集団のなかで自分の行動が強制されたり制限されたりしないこと、ある程度自由でいられること、自分ひとりのスペースがあることらしい。
これはかなり強いニーズであるという自覚が、最近になって生まれてきている。
集団行動を強制されたり、要求されたり、期待されたりすることで、私のひとり自由でいられることの安心がかなり強く侵害される。

幸い、IITはどんな場合であれ、ひとりひとりが自分のニーズを満たすことを全員が許してくれる場なので、わざわざ音響係にならなくても輪にはいることが嫌だったらそこから抜けることが許されるだろう。
いつでもそういう場にいられれば安心なのだ。
私が主宰している現代朗読協会もそういう場でありたいと思う。


この安心が保障されたとき、人はとてもいきいきと能力を発揮したり表現できるのだということを、いま身をもって実感している。