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2014年10月10日金曜日

岩名雅記×ヒグマ春夫コラボレーションを観てきた

2014年10月9日。
昨日の夜、映画「うらぎりひめ」の監督でフランス在住の舞踏家・岩名雅記氏と、映像作家で美術家のヒグマ春夫氏とのコラボレーション・イベントに、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉まで行ってきた。

キッド・アイラック・アート・ホールでは現代朗読の公演を何度もやっているし、カルメン・マキさんとも「白い月」という公演をやったりして、なじみの場所だが、なんだかひさしぶりに訪れた。
ひさしぶりだが、やはりなじみの空間で、はいって椅子に座るとしっくりする。
ホールはごくおおざっぱにいえば「凸」の形をしていて、下の大きな四角の部分を舞踏の場(ステージ)に、上の小さな四角の部分にひな壇を作って客席にしてある。
ヒグマさんの映像機材は「凸」の左肩の部分(入口のドアをはいってすぐ左脇)にセッティングしてあった。

客電が落ち、始まると、プロジェクターの映像が客席正面の壁に投影された。
レンズは3本あるようだ。
正面の壁に大きな映像、その両側の柱や横の壁のところに、縮小されたおなじ映像が、しかし凹凸にそってゆがんだり斜めになったりして投影されている。
古い民家の格子の障子戸のようなものが映しだされている。

音楽はなく(途中で2度だけ歌曲が小さく流れた)、プロジェクターのファンの音、ホールの外の道路から聞こえる人声や車の音、足音、ほかには客席の咳払いやだれかのケータイにメールが着信する小さな信号音などが聞こえるだけだ。
「だけ」と書いたが、さまざまな音が静かながらホールを満たしている。
そこへおもむろにドアが開いて、ドレス姿の岩名さんがはいってきた。

腰くらいまである長い髪をぞろりとたらして、黒い女性のドレスを着ている。
胸にはふくらみがふたつ作ってある。
額と左手甲し右手甲に、ちいさな鈴をいくつか縫いつけたひたたれをくっつけている。
動くたびにそれらがかすかにちりちりと音を立て、ホールを満たした音の仲間入りをする。

岩名さんは客席の左の前のあたりに仰向けになると、両足をわずかに床から持ちあげた姿勢で、ゆっくりと横に転がりはじめた。
ゆっくりゆっくりとステージを斜めに横切って転がっていく。
年齢を重ね、そして舞踏家として使いこまれた皮膚と筋肉がゆっくりと踊っている。

ヒグマさんの映像が動いた。
なにやら原始生命を思わせるようなぐにゃぐにゃ、ぶつぶつした物体がうねうねと動いたかと思うと、そこにいまいる岩名さんを映しているリアルタイムの映像が加工されて重ねられたり、あるいはそのままストップモーションになったりする。
踊りも映像もひたすら無言でこちらのさまざまな感覚を引っかきまわしてくる。
非言語的な表現にせっして、こちらはなんとか言語的な解釈の世界に逃げようとするのだが、違和感のある映像と肉体とその経過刺激につかまえられてそれが許されない。
いっそぼーっとなにもかんがえずに任せきってしまったとき、気持ち悪く気持ちよさがやってきた。

子どものころ、風邪をこじらせて熱を出しひとりで布団に寝ているとき、なんともいえない不快感と快感のないまぜになった身体だった記憶があるが、そのことをちょっと思いだした。
岩名さんの帰国中に、また羽根木の家に遊びに来ていただいて、話をしたいものだ。
昨夜は骨折中ということもあって、懇親会にも出ずに引きあげてきた。
ヒグマさんも、よくキッド・アイラック・アート・ホールでやられていてお名前と顔はよく存知あげているのだが、一度も話をさせていただいたこともない。
一度ゆっくりお会いしたい方のひとりだ。

ところで、以下余談。
昨日は7時半からの開演に間にあうように、十分によゆうをみて6時半に羽根木の家を出たのだが、松葉杖をついてえっちらおっちら新代田の駅まで行ってみたら、井の頭線が止まっている。
駒場東大前で人身事故があり、復旧は7時20分ごろになるという。
タクシーで行こうとしたが、全然来ない。
来ても上流のほうにいる人に先に乗られてしまって、私のところまで回ってこない。
やむなく羽根木の家までもどり、野々宮に手伝ってもらって自転車を出し、それを片足でこぎながら明大前までなんとか移動したのだった。
やれやれ。
なのだが、ギプスをはめていても自転車は案外使える、ということで、近所の買い物くらいならこれが便利かも、ということを発見した。