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2014年8月2日土曜日

名古屋まで共感的コミュニケーションの企業研修に行ってきた

昨日は名古屋まで日帰りで、共感的コミュニケーションの企業研修の講師の仕事に行ってきた。
共感的コミュニケーション、すなわちNVCは、このところ急速に注目を浴びていて、企業からの研修の引き合いが多い。
私が名古屋に行った昨日も、一方で音読療法士でNVCの日本コアメンバーである野々宮卯妙も、企業研修のために大阪に出張していた。

私が昨日行った名古屋の会社は、これも野々宮が昨年からコツコツとアプローチしつづけて、ようやく実現した研修だった。
彼女が講師をつとめてもよかったのだが、私が行くことになった。

参加者は18人。
これまでの経験の感覚からすると、この人数だと個別のワークをじっくりおこなうというより、どちらかというとセミナー的な講義形式がメインになる。
もちろんワークもおこなったのだが、私が講義する時間がやや多くなってしまったようだ。
「しゃべりすぎ」といわれた。
しかし、私にもニーズがあって、とにかくみなさんの業務時間内の半日・4時間で共感的コミュニケションの有効性を魅力的に伝え、かつ実践的なスキルをある程度身につけてもらいたいという思いがあった。
そしてそのことを自分の表現としてみなさんの前でおこなうことは、私にとってはとても楽しいことでもあった。

しかし。
私が自分のニーズを満たし、そのことを楽しむことと、皆さんのニーズを満たすこととは別の話だ。
結果的に参加の皆さんのニーズを満たすことにあまり貢献できなかったのではないか、という評価があり、それは私にとっても残念なことであった。
その残念な気持ちに共感してくれる人はだれもいないので、とりあえず昨日は、「自己共感の島」にひとりで帰っていくことにしたのだった。

ちょっと冷製になってからかんがえたことだが、かつてだれかに、「ガラでもない」といわれたことがあった。
つまり、私はピアニストであり、小説家である人間だが、そういう人間が人を教える場で講師をつとめたり、講演したりといったことが、「ほんとにあんたのやりたいことなの?」と、そのような表現で問いつめられたことがあるのだ。
そのとき、私はハッとして、自分のやりたいこと、自分のやれること、自分の「ガラ」というか「本分」というのはなんだろう、と考えこんでしまったことがある。
それを思いだしている。

正直にいうと、企業研修の講師というのは(うまくいけば)けっこうな収入になる。
40歳前後から20年近く、経済的にずっと苦しんでいた私にとってはとても魅力的な仕事ではある。
しかし、それが自分の本分であるかというと、自分の内側を見て、「誠実」「正直」「正当性」などのニーズにのっとって「違うかもしれない」と思う。
つまり、自分にニーズにきちんとつながれない仕事は、いくらお金になったとしても、やっていても、うしろめさたがつきまとうということだ。

うしろめたさの理由には、もうひとつ、自分は共感的コミュニケーションのベースとなっているNVCの正当な継承者でないのではないか、という思いもある。
NVCのコアメンバーたちの活動にもきちんと積極的に参加していないし、アメリカでおこなわれているリーダーシッププログラムにも一度も参加したこともないし、NVCから勝手に引っ張ってきた「共感的コミュニケーション」という名称で本を勝手に書いているし、ということもある。

共感的コミュニケーションで「講師」をつとめるということについては、いくつかの「ひっかかり」がある。
それが、なにかちょっとした批評や批判をきっかけに噴出してきて、あらためて考えさせられてしまうのだ。

たぶん、共感カフェなどの「勉強会」のような小規模の集まりの進行役とか、紹介役なら引っかかりはない。
すっきりしているし、楽しくやらせてもらっている。
しかし、ある程度まとまった報酬をいただいておこなう研修のような形のものは、もちろん私なりに力を尽くしはするけれど、自分のなかでは納得感がない。

今後、このような研修の仕事は、後進にゆずり、私は私の本分であるところの仕事に専念しようと思う。
そうそう、後進にゆずるための後進育成の仕事も、私にとっては大切なものであるかもしれない。