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2014年2月10日月曜日

佐村河内守(新垣隆)騒動について音楽家として思うこと

photo credit: frawemedia via photopin cc

すでにさんざんあちこちで書かれているので、いまさら私が書くようなことでもないが、ひとつ引っかかることがあるので、音楽の作り手側からの視点で私なりに思ったことを記しておく。

佐村河内氏は耳が不自由で音が聴こえない、そんなハンディを乗りこえてこんなすばらしい曲を作るなんてすごい、というストーリーのもとに、大きなお金が動くことになった。
しかし、私はまずそこのところに引っかかる。

音が聴こえないと曲が作れない、と多くの人が思っているようだが、そんなことはない。
たぶんこれは、晩年のベートーヴェンが聴覚を失い、それで苦労したというストーリーにもとづいている面が大きいと思うが、私の解釈では晩年のベートーヴェンは耳が聞こえなくなったせいで作曲に支障をきたしたわけではない。
むしろ作品が証明しているように、ますます円熟を増したのだ。
つまり、耳が聞こえなくなったから作曲ができなくなる、というようなことは(ある程度音楽をわかっている者なら)まったくない。

もし私の耳が聞こえなくなったら曲を作れなくなるかというと、まったくそんなことはないと断言できる。
音が聴こえなくても曲は作れる。
作曲家ならわかるだろうが、いちいち音を鳴らして確認しながら作曲をする者などいない。
ある程度完成してから、確認のために弾いてみることはあるかもしれないが、もし机上でイメージして書きつけた音符と、実際に演奏してみた音がずれていたりしたら、その者は作曲能力そのものを疑ったほうがいい。

佐村河内氏は耳が聞こえないから作曲に不自由したというより、作曲能力そのものが欠如していたと解釈するほうが妥当だろう。
しかし、曲のプロデュース能力はあった。
これは耳が聞こえる/聞こえないということとはまったく別の問題だ。

その曲がすばらしいかどうかは、その曲自身が示している。
けっして作曲家にまつわるストーリーが曲の価値を決めるわけではない。

というようなあたりまえのことをわざわざ確認しなければならないところに、商業がからんだ音楽の病巣がある。