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2013年6月18日火曜日

はじめたことを継続させるコツ

人から見るとピアノとか文章書きとか演出とかスケッチとか料理とか、いろいろなことができて器用な人間に見えるらしいが、本当は私は器用なのではなく、ひとつのものごとをこつこつとつづけることが得意なだけだ。
ピアノにしても文章書きにしても、その他のことにしても、ずっと毎日、たとえ少しの時間でもかならず欠かさずつづけてきた結果、人より多少できるようになっている、というだけのことだ。

なにかひとつのことをこつこつとつづけるコツのひとつを紹介してみる。
たとえば文章。
私はテキスト表現ゼミというものを主宰していて、そこには小説家になりたい、あるいは魅力的なブログや詩歌を書けるようになりたい、といった人が参加している。
テキスト表現ゼミ以前にも、パソコン通信時代にニフティサーブの「本と雑誌フォーラム」というとこけで「小説工房」という小説家志望者の道場のようなことをやっていたこともあって、私はこれまでに何百人という書き手の、そして何万本というテキストを読んできた。

それだけの経験があると、何万本というワインを飲んできたソムリエが一口すすっただけでそのワインの質をいいあてられるように、私も数行読めばそのテキストのクオリティがわかる。
「小説家の才能」などといういいかたがあるが、「才能」を「資質」といいかえれば、すべての人にすぐれたテキスト表現者になる資質がそなわっている、と私はかんがえている。
表現というのは、ある方法をもちいて自分自身を他人に伝えることだ。
自分自身のなにを伝えるかといえばも、それはオリジナリティであり、自分と人とはこのようにちがうのだ、そして自分自身は数あまたある人々のなかにおいてこのようにユニークで貴重な存在であるのだ、ということを伝えるのが表現の目的だ。
だから、テキスト表現においても自分なりのユニークな方法を発見すればいいのだ。

ただし、書かなければ見つけられない。
書くというのは、ただ漫然と書いているのではなく、一定の質を確保した上で量を書きつづける、ということだ。
なにかを継続的におこなって質をあげるためには、量的な蓄積が有効かつ必要だと私は経験的に感じている。

テキスト表現ゼミでとてもよい資質を見つけて、その人にぜひともすばらしい書き手になってもらいたいと思い「毎日書いてね」とお願いすることがある。
しかし、たいていの人はそのお願いを聞き入れてくれることはない。
たぶん、自分が唯一無二の書き手になりたいという、真剣なニーズを持っていないのかもしれない。
小説家になりたい、と語っている人の多くは、小説を書いて人気者になったりたくさんの印税をもらって楽して生活したい、というニーズだったりする。
そのことと、クオリティの高い表現者になることとは、ほとんどなんの関係もない。

話をもどす。
毎日書きつづけるコツ。
書く時間を決めない、書くタイミングを決めない、どのくらい書くかを決めない。
何時になったら書くとか、朝食後に書くとか、毎日1,000字はかならず書く、などと決めてしまうと、だんだんいやになってつづかなくなってしまう。
そういったことを決めずに、ただ「毎日いつでもいいから一行でも書く」と決めておく。
一行でもいいのだから、電車を待っているあいだでも書ける。

最初の行が書ければつぎの行へとつづけるのはそうむずかしいことではない。
そうやってある程度の分量が書けたら、つぎの日に書く分の最初の一行だけ書いてから、その日の分をおしまいにする。
翌日は、最初の一行がすでに書けているので、そこからつづけるのは楽だ。
あるいは昨日に書いた一行が気にいらなくて捨てたくなるかもしれない。
それはそれでいいのだ。
書き直してあらたにはじめる。

そうやって一行、数行でも毎日書きつづける。
毎日、かならず書く。
その習慣が身につけば、書かない日があるとなんだか気持ち悪いし、物足りなくなる。
そうやって毎日少しでも書きつづける人と、たまに気の向いたときにしか書かない人のあいだに、ある一定の質と量の差が広がっていくのは自明のことといえるだろう。