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2013年5月4日土曜日

私はなぜ自由に楽しくピアノを弾けるのか

私がピアノをピアノ教師について習っていたのは、小学三年から六年までの四年間だ。
もともと器用な人間なので、楽器の習得は早く、また母親が熱心にくっついて練習の面倒を見てくれたので、六年生の頃にはソナタ全集を弾くくらいにはなっていた。
が、そこで嫌になってしまったのだ。
上達するためにはつまらない反復練習や練習曲を毎日、一定時間やらなければならない、というのが当時のピアノ教育だったので(いまでもそうかもしれない)、だれだっていやになる。
とくに私の子どものころは、ピアノを習っている男の子はとても少なく、六年生くらいになると自分が女の子に混じって、しかもそこそこ弾けるので発表会などでもけっこう目立つ位置にいることが、逆に気恥ずかしくなってしまった。

私は両親とかけあって、なんとか中学校にはいる前にピアノの稽古をやめさせてもらった。
もう明日からピアノの練習をしなくてすむ、となったときの開放感は、いまでもはっきりとおぼえている。
で、そのままピアノをやめてしまわなかったのはどういうわけだろう、とかんがえている。

幼いころピアノを習っていて、でも途中でやめてしまって、それっきりいまだに弾いていないし、まったく弾けなくなってしまった、という人の話をたくさん聞く。
なかには私よりはるかに長期間習っていたとか、高校生くらいまで習っていたといった人もいて、そういう人がいままったく弾けなくなってしまっているというのは、ちょっとびっくりする。
そういう人と、いま自由に即興演奏を楽しんでいる私とのちがいはなんだろう。

中学生になって私はピアノを習うのをやめたけれど、音楽を嫌いになったわけではない。
むしろだんだんいろいろな音楽を聴くようになって、音楽のおもしろさがわかるようになっていった。
最初はクラシック音楽、それから当時盛んになっていたフォークソング、ポップス、ロック。
ロックやフォークは上級生で詳しい者がいて、レコードを貸してもらったりしたが、ほとんどの情報源はNHKのFMラジオだった。
田舎なので民放ラジオの電波がほとんどはいらなかったのも幸い(?)したのかもしれない。
テープレコーダーが普及しはじめていて、ラジオ番組を録音して繰り返し聴いたりした。
それを当時は「エアチェック」などと呼んでいた。

いまは亡き小泉文雄さんの「世界の民族音楽」という番組もおもしろかったし、週に1回しかなかったジャズ番組にも夢中になった。
聴いたことのない音楽が新鮮で、飛びつき、繰り返し聴いた。
それがいまの私の音楽的糧になっていることはまちがいない。
とくにジャズ番組には刺激を受けた。

私が中学生から高校生くらいというと、1970年代なかばで、ウェザー・リポート、リターン・トゥ・フォエバー、ヘッド・ハンターズといったフュージョンバンド(当時はクロスオーバーと呼んでいた)が台頭しはじめたころだ。
日本でもネイティブ・サンといったグループや、ナベサダもフュージョンをやったり、いまもカルメン・マキさんと共演したりして活躍している板橋文雄さんがまだ20歳前後でエレクトリックピアノとワウワウイフェクターを駆使して演奏したりしていた。
それは後に、日本のたくさんのフュージョングループ、たとえばカシオペアとかスクエアにつながっていく。
そういった演奏を、私は勝手にまねして、ピアノでひとり遊んでいた。
さかのぼってバップジャズやスイングあたりのまねも楽しんでいた。

この「遊んでいた」というところにポイントがあるような気がする。
だれからも強制されることなく、まただれかと競争することなく、ただ自分が楽しくて、おもしろくて真似したり勝手に曲を作ったりして遊んでいた。
毎日ピアノを弾いていたような気がする。

その後、自主的にジャズについて本格的に勉強したり、音楽全般についての知識を広めるようになるのだが、あくまでもそれは楽しいからだった。
それはいまでもつづいている。
いまはジャズとかクラシックといったジャンルの区別もなく、ただ好きなように弾き、その音を使ってミュージシャンはもちろん、朗読やダンス、美術の人たちとも会話を楽しんでいるのだ。
遊びでしか人は真に成長しない。