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2013年4月10日水曜日

私は生ピアノを弾きたいのだ

ピアノを弾いていると、いろんな人からいろんなことをいわれる。
それは当然のことで、ひと前でなにかをする(表現する)というのは、情報発信するということであって、そのリアクションはかならずある。
それが自分の望むようなものであるか、そうでないかは別問題で、ひどく傷つけられるようなことをいわれることもある。
表現する者はもとよりそれを覚悟の上で、そういったことに対処できるメンタリティを持っているほうがいいと思うが、これはまたあらためて別の機会にくわしく書いてみたいと思う。

ピアノはいわばスイッチがたくさん並んでいるような楽器で、だれが弾いてもひとしくきれいな音が鳴る。
バイオリンやトランペットのように、きちんと音が出るようになるまで苦労するというようなことはない。
指を置いて鍵盤を押せば、一様にきれいな音が鳴る。
とはいえ、なぜか人によってピアノの音が違って聞こえる、という事実もたしかにある。

私がピアノを弾いたとき、
「とても繊細な音で好き」
といってくれる人もいれば、
「本職のピアニストじゃないから響きが弱いね」
という人もいる。
両方の意見ともうなずける。

私がピアノを弾きはじめたのは小学3年生のころで、ピアニストとしてはかなり遅いほうだろう。
しかも個人レッスンについて習っていたのは小学6年生までで、そのあとはずっと独学だった。
音大に行くようなピアノ弾きとはまるで基礎が違っている。
しかし一方で、20代前半の頃は職業バンドマンとして一日のうち8時間とか連続的にピアノをひと前で弾いていたことがあって、それはほとんどプロピアニストの多くがあまり経験することのないほどのハードワークだった。
その経験が何年かあって、それらの日々ではアコースティックピアノもエレクトリックピアノもシンセサイザーや電子オルガンのようなキーボードも、あるゆる鍵盤楽器を毎日弾きまくっていた。

ライブやYouTube映像で外国のピアニストの映像を見ていると、その恐ろしいほどに力強いタッチに驚く。
実際に彼らは屈強な体躯を持ち、腕も指もごつい。
十数年前にブルーノート東京にハービー・ハンコックの演奏を聴きに行ったとき、偶然ハンコックと握手する機会にめぐまれたのだが、そのときの分厚い手のひらと指のごつさにびっくりした記憶がある。
とてもかなうものではない。

日本のピアニストにもそういう人はいる。
板倉克行、板橋文夫、本田竹曠、などなど。
彼らが弾くと、そのピアノはまるで別の楽器のように「鳴り」だす。
私にはたぶんそういう芸当はできない。
しかし、と思うのだ。

非力だからアコースティックで勝負するのはあきらめて、電子楽器で自分を生かせばいいではないかというかんがえかたもある。
電子楽器は力がなくてもいくらでも音を増幅できるし、音色も変えることができる。
それもひとつのかんがえかたで、悪くないし、それに抵抗することなく取り入れようとも思っているが、一方で私なりのアコースティックの味わいもあるのではないかと思っている。

残念ながら、いま私はアコースティックのピアノを日常的に弾ける環境にないけれど、いずれそういう状況にめぐまれたら、自分なりのアイディアと資質を生かすための試みをやってみたいと思っている。