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2013年3月14日木曜日

朗読が「上手くなる」とはどういうことか

photo credit: eschipul via photopincc

私たちはなにか表現行為をしようとしたとき、「もっとうまくなりたい」とかんがえる。
それは非常に漠然としたかんがえで、そもそもうまくなるとはどういうことなのか、具体的にかんがえていることは少ない。

朗読がうまくなりたい。
歌がうまくなりたい。
文章がうまくなりたい。
絵がうまくなりたい。
ダンスがうまくなりたい。

なんとなく「うまくなりたい」と口にするのだが、では実際になにがどうなれば「うまくなった」と判断することができるのだかろうか。
「うまくなる」には客観的な判断基準はあるのだろうか。


朗読にかぎってかんがえてみたい。
そもそも「うまい朗読」とはなんだろう。
朗読がうまい、とはどういうことなのか。

カルチャーセンターや放送局がやっている朗読教室に行くと、朗読技術を教えてくれる。
それはまず「日本語の正しく美しい発音発声技術」であり、ルーツは大正14年のラジオ放送開始から徐々に整備されてきた「放送技術」である。
朗読教室では共通語イントネーション、明瞭な発音(滑舌)、鼻濁音、無声化などといった放送技術上の決まりごとを習うことになる。


これは「技術」であるから、その出来不出来を数値化したり優劣をつけることができる。
そしてだれでも習得して「うまく」なることができる。
しかし、これは表現とは関係ない。

では、表現とはなんだろう。
いずれのジャンルの表現も、ある行為をおこなうことで自分の「あるもの」もしくは「すべて」を他人に伝えようとする行為が表現であろう。
19世紀以前は、自分自身が「すぐれていること」を他人に見せることが表現行為だった。
自分がいかにすぐれた才能を持っているか、あるいは努力の結果人とは異なった特別なことができるようになったのか、その優位性を誇示することが表現行為であった。

20世紀以降、モダンアート、コンテンポラリーアートと表現の歴史が遷移していくなかで、表現行為は自分の優位性を誇示するのではなく、ユニークさを伝えるためのものとなった。
自分が人よりどれだけすぐれているのかを示すのではなく、自分が人とはどれほど異なってユニークな存在であり、またオーディエンスもそういう存在であり、個々が貴重な存在であることに気づき尊重しあうのが、表現行為の場とかんがえられるようになってきた。

現代朗読はその流れのなかで朗読表現についてもアプローチしている。
したがって、現代朗読は朗読技術や、ましてや放送技術を誇示することはしない(見ればわかるか)。


コンテンポラリー表現において「うまい(と感じる)」とはどういうことだろう。
表層的な技術でないことはたしかである。
身体性や表現者のありよう、アイデンティティなど、より本質的で深層的な技術があるとしたら、それに関係することかもしれない。

表現は「伝える」ことだから、よりよく伝わることが「うまい(と感じる)」ことにつながることはまちがいない。
朗読において「伝わる」ものは、表層から深層までいくつかのレベルがある。
表層から順に、

 お話(ストーリー)
 言葉
 音声
 身体
 感情など表現者のこころの状態
 表現者の全体性

現代朗読ではこの順に上から深めていき、最終的には朗読者の全体性が朗読表現をとおしてオーディエンスに伝わることをめざす。

朗読を聴いたとき、オーディエンスが「どんなお話なのか」を理解するだけでなく、その読み手がどのような人間であり、いまこの瞬間どのような「(身体もこころも含め)動き」をしているのかが伝わることをめざす。
それをもって「きみ、うまいね」ということがある。
そのとき、表層的技術の上手下手は問題にされない。
むしろ、表層的技術が深層的技術の邪魔をすることすらある。
もっとも、すぐれた朗読者は表層的技術と深層的技術のバランスをつねに最良にたもち、自分の全体性を伝えるために必要なコントロールを即興的におこなっているはずだ。