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2013年1月6日日曜日

我々は無意識に相手を責める言葉を使っている

photo credit: Έλενα Λαγαρία via photopincc

なにか共同で仕事をしている、いっしょになにかを作っている、いっしょに生活している、といったシチュエーションのとき、相手が自分の思うように動いてくれないことはしょっちゅうある。期待にそぐわない行動を相手がしてしまったとき、ついそれを責める言葉を使ってしまうことがある。
そしてそれはなんの解決にもならないばかりか、関係性を悪化させることにしかならない。


たとえば、いっしょに生活していて、洗い物の役割分担を決めているようなとき。
今日はあなたの分担ではなく、パートナーの分担のはずだった。
あなたは仕事で、パートナーは休日という日だ。
ところが、あなたが仕事から帰ってみると、パートナーは洗い物を放置してゴロゴロとすごしている。
そんなとき、あなたはなんていうだろうか。

「なんで洗い物してくれなかったの? 時間がなかったわけじゃないでしょ?」
これは相手を責めることばだ。
自分は一日働いて疲れて帰ってきた。
ところが、仕事がなかったパートナーは自分の分担であるはずの洗い物を片付けていない。
自分の分担であるはずの簡単な仕事を片付けてもくれなかった。
自分の楽ばかりえらんでいるように見える。
思いやりを感じられない。

そんなことを感じてパートナーに腹が立ち、つい責める言葉をつかってしまう。
しかし、それでなにが解決するだろうか。
相手はどう答えるだろうか。
「おれだって疲れてるんだよ。やりたくないわけじゃない。いまからやろうと思ってたんだよ」
ふたりの関係は険悪になってしまう。


こういったやりとりはごく日常的なもので、多くの人が身におぼえのあることだろう。
では、こういうとき、どうすればいいだろうか。
共感的コミュニケーションを使ってみよう。

共感的コミュニケーションでは、まず自分の気持ちを丁寧にあつかう。
この順番をまちがえないようにしたい。
まずは自分、それから相手。

洗い物が片付いていない状態を見て、とてもがっかりする。
それは自分にどういう必要があるからだろうか。
パートナーから思いやりをもって接してもらうことが必要だから?
ふたりの決めごと(家事の分担)をお互いに守ることで生活の快適さと持続性を大切にしたいから?

それがうまくいっていなかったことでがっかりしている自分を、まずは認めることが大切だ。
自分の必要性と大切にしていることが満たされなくてがっかりしている自分を、まずは「悼(いた)む」ことだ。
自分はこれこれこういうことが必要だったのね、それが満たされなくてがっかりしているのね、と。
ゆっくりと呼吸して、「いまここ」の自分の感情を客観的に見ることで、すこしは落ちついてくるのを感じるだろう。

すこし落ちついたら、つぎに相手の必要性を想像してみる。
彼だってこちらを怒らせたいわけではない。
洗い物をやらなきゃと思っていながら、なんらかの理由でいままでできていなかったのかもしれない。
彼の必要性は?

完全な休息が必要だった?
洗い物のことすら忘れ、仕事の疲れを取るために完全に気楽にすごしている時間が大切だった?

実際に相手にその推測を質問してみる。
その際、こちらは相手がなにを必要としているのか、なにを大切にしているのか、ということについて、興味を持つ。
興味は好奇心といいかえてもいい。
興味あるいは好奇心を向けられた人は、それに応えようとする。

「洗い物が片付いてないんだけど、あまりに疲れていてたくさん休む必要があったから、まだそこまでたどりついてないということなのかな?」
彼はなんとこたえるだろうか。
「そうなんだ。でも、いまからやるよ」
かもしれないし、
「すまん、たんに忘れてただけ」
かもしれない。
責めることばを使ったときとまったくちがう展開になることに気づいただろうか。

なぜこういうことが起こるののか。
それは、あなたが彼に「興味/好奇心」を向けたからだ。
すなわちそれは、「共感」ということになる。

人はだれかに共感を向けられたとき、自分の役割を思いだす。
逆に責められることばを向けられたときは、反発し、殻にとじこもったり、楯を置いたりする。
相手を責めることばはなにもいいことを生まない。