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2013年1月14日月曜日

「恥ずかしい」という感情

photo credit: Έλενα Λαγαρία via photopincc

なにか自分がやらかして「恥ずかしい」と消え入りたくなってしまったことはだれもが経験のあることだろう。あるいは、なにかやろうとしても「恥ずかしい」という感情が起こったせいで二の足を踏んでしまったこともあると思う。
いったいこの「恥ずかしい」という感情は、人の大切にしていることのなにを指し示しているのだろうか。

ひと前でなにかスピーチをしなければならない場面がやってきたとする。
会社での朝礼でのひとことスピーチでもいいし、友人の結婚式でのスピーチでもいい。
あるいは宴会での乾杯の音頭でもいい。
好きな人に告白する場面でもいい。
そのとき「恥ずかしい」という感情がにわかにわきおこり、顔が真っ赤になり、しどろもどろになってしまっていおうと思っていたことがうまくいえなくなってしまう。


「恥ずかしい」という感情は「自分自身の存在や行為を評価する基準が自分の外側に設定されているとき」に起こる。
日本は「恥の文化」だとよくいわれるが、これも「ひとさまに顔向けができないようなことはするな」と子どものときから教育されることでわかるように、評価の基準が自分ではなく他人、あるいは社会の規範にある。

電車に乗って騒いでいる子どもをしかるとき、「恥ずかしいことはやめなさい」「まわりの人に迷惑がかかるからやめなさい」と親はいう。
たしかに自分の子どもが公共の場で騒ぐと周囲に迷惑がかかる。
だから子どもに「迷惑がかかるから」という理由で騒ぐのをやめるように命じる。
それをもって「自分のしつけが悪かった」と責める気持ちまで起こってくる。
あるいは「しつけができない親だと思われたらどうしよう」とおろおろしてしまう。
これらはすべて外部の基準による判断であり行動だ。


共感的コミュニケーションでは次のようにかんがえる。
自分の子どもが騒いで周囲に迷惑をおよぼすことによって「自分の必要性」のなにがそこなわれるのだろうか。
自分は公共の場における秩序を大切にしているのだろうか。
子どもがちゃんと社会とルールのなかで共存していけることを望んでいるのだろうか。

自分がなにを必要としているのか、なにに価値をおいているのかがはっきりとわかれば、子どもに伝えることばも変わってくる。
「お母さんはあなたに、電車のなかでは静かにしていられて、まわりの人に迷惑をかけない人になってもらいたいのよ(子どもが社会のなかで多くの人と共存していけるように育ってほしいから)」
それを聞いた子どもはどのように反応するだろうか。


「恥ずかしい」という感情は、人の公共性に深く関係している。
社会的強調、調和、秩序、平和、公平さ、そういったことに結びついていて、それらがそこなわれたとき現れる感情だが、しばしばそれは自分の価値観というより、社会的規範として刷りこまれた形で現れてくる(教育によって)。

しかし、価値判断の基準を他人軸である社会的規範ではなく自分自身の価値基準においたとき、恥ずかしいという感情は別のものに変化する。

「まわりにどう思われるだろう」から「自分はどうしたい?」に変わったとき、恥ずかしいという感情が消え、確信を持った行動に移れる。

好きな人に告白するとき、その結果断られたり相手にばかにされたらどうしよう、恥ずかしい、という感情がいったん起こったとしても、自分が相手に気持ちを正直に伝え表現することが大切だと思えたとき、恥ずかしさの感情を乗りこえ、自分を大切にするために相手に告白するのだ、と具体的な行動に移ることができる。
その結果が残念なことになったとしても、それは自分の責任ではなく、恥ずべきことがらでもない。
たまたま自分が受け入れられる条件が相手の側にそろっていなかったからだ、と思えばいい。
なにかやらかしてしまって「恥ずかしい」と思ってしまったとしても、自分の行動の結果は自分のせいではなく、相手側の条件にゆだねられているから自分では責任を取る必要はないし、取ることもできないのだ、ということをしっかり理解しておきたい。


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