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2012年12月13日木曜日

だれかのためになにかをしてあげたいという気持ちを慎重に観察してみる

photo credit: kagen33 via photopincc

だれかの役に立ちたい、なにかに貢献したい、という気持ちはだれにでもある。人の行動の基本にはその必要性がデフォルトとしてセットされているといえるかもしれない。
しかしこの行動は、きちんと自分の必要性とつながっていないと、ともすれば相手に迷惑をかけることになる。

もしあなたがだれかから、
「あなたのためにこれをしてあげたのよ」
といわれたらどんな感じになるだろうか。
うれしい気持ちになるかもしれないが、その奥にはなにか「借り」を作ってしまったというとまどいが生まれることもある。
そんな覚えはないだろうか。

たとえば、親からそういうふうにいわれたことがないだろうか。
「あなたの将来を思って塾に行かせてあげてるのに」
もちろん、自分が将来よい学校に行き、よい仕事を得て、平安に暮らすことを親は望んでいる——つまり自分の幸福を望んでくれているのだ、ということは頭ではわかっている。
が、なぜか身体ではそれが納得できなくて、不快な気持ちがわいてきてしまう。
放っといてくれ、と思ったり、実際にそのような反抗的なことばを投げつけてしまったりする。

親の側からすればどうだろうか。
親が子どものために「やってあげる」と思っていることは、本当に子どもの「ため」なのだろうか。

ここでしっかりと自分を観察しなければならないのだが、自分が「だれかのために」と思ってやることは、自分のなにを満たすだろうか、ということだ。
だれかに貢献したい、という思いは、だれかに貢献できたとき自分のなかに「純粋な喜び」が生まれるかどうか、ということが重要だ。
見返りとか、自分の見栄や虚栄心を満たそうとしていないかどうか、慎重に観察しなければならない。
あるいは相手に貢献することで自分の存在意義を保持しようという、一種の「依存の形」を作ろうとしていないかどうか。

親の行動についていえば、子どもに塾に通わせ、いい学校に行かせる、いい成績を取らせるということで、自分自身の虚栄心を満たそうとしていないだろうか。
子どもから感謝してもらいたいという見返りを求める気持ちがないだろうか。
あるいは「子どものために自分はこれだけのことをやっている」という、実は自分のほうが子どもへの行為に依存して、自分の存在意義を無理に作ろうとしていないだろうか。

貢献したい気持ちの根底に純粋な喜びがないとき、もし相手から貢献したい気持ちや行動を拒否されたり、否定されると、こちらには怒りや悲しみの感情が生まれるだろう。
しかし、純粋な喜びにもとずいて貢献したいと思っているときは、相手から拒絶されてもただそれは自分が残念だなと思うだけで、相手に対して怒りや恨みが生まれたりはしない。

相手になにかをやってあげるとき、見返りや感謝のことばを期待したり、自分の虚栄心や依存心を満たそうという気持ちが少しでもあると、それは純粋な貢献ではなく、たんなる押し付けになってしまいがちだ。
親切を押し付けることほど相手にとって迷惑なことはない。
それはお互いのつながりの質をいちじるしく低下させることになりかねない。