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2012年11月6日火曜日

いじめ防止プログラムに違和感をおぼえる

photo credit: Red Lionness via photopin cc

ついさきほど、今朝のNHKニュースで、徳島の小学校で実施されているいじめ防止プログラムについて紹介されていた。
鳴門教育大学の教授が作ったという、膨大で綿密な教育プログラムで、子どもたちはそのプログラムにそって何十時間ものいじめ防止教育を受ける。
また教師もそのプログラムにそって実施すれば、いじめの発生を防止することに効果がある、といわれていて、まじめにプログラム通りに実施している教師が紹介されていた。
フィンランドでも同様のプログラムが実施されている、という付帯情報も流されていた。

私はこのニュースを見て、ある危惧を覚えた。
全体のブログラムを知っているわけではないので決めつけるつもりはないが、映像では子どもたちが実際にそのプログラムを実施している場面が紹介されていて、それを見てちょっと「ぞっ」としたのだ。
それは子どもたちがお互いの「よいところ」を指摘しあう、という場面だった。

3、4年生くらいだったと思うが、生徒のひとりずつについて、クラスのみんながその子の「よいところ」をあげて発表する、という方法だ。
たとえば「○○ちゃんはとても大きな声で音読できるのでいいと思います」というような評価をみんなでする。
いわれたほうは、自分にはこんないいところがあるんだ、と知り、いい気持ちになる、またみんなとのつながりも感じられる、というものだ。

私がぞっとしたのは、一見子どもたちのつながりを作るように見えるこの方法が「評価方式」の上に成り立っている、ということだ。
だれかがだれかをなにかについて「よい」と評価することは、「悪い」と評価することとなにも変わりはない。
表裏一体どころか、それはおなじ心理でおこなわれている。

フィンランドでもおこなわれていると紹介されていたが、フィンランドの事情と日本の事情はおなじなのだろうか。
フィンランドの防止プログラムはどのような内容なのだろうか。
この教育プログラムがいじめをなくすことに役立つだろうか。
もしいじめがなくなったとしても、なにか大切なものをそこなうことにならないだろうか。

人と人がある質をもってつながるためには、評価ではなく共感が必要だ。
同情ではない、共感だ。
それはおたがいのちがいを受け入れることであり、お互いが大切にしていることを尊重しあうことだ。
評価システムではそれができない。

NHKニュースではそれが大きな可能性として教育現場に受け入れられ、これからどんどん全国的に広がっていくような論調で語られていた。
私にはとても心配な気がした。
私は心配しすぎているのだろうか。