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2012年9月14日金曜日

うちのとなりに耳の不自由な人がいた

photo credit: ulle.b via photo pin cc

私の、いまも母が住んでいる田舎の実家は、私が小学校一年生のときに父が建てた家だ。
それまでは川向こうの、それも私が生まれる直前に父が建てた家に住んでいて、洋間や庭があって、山や大きな川が近くにあって思い出深い家だったが、そこを人に売り渡して、いまの実家に移った。
前の家はいまも人が住んでいて、かなり改装したようだが、きちんと使ってくれているのはうれしい。

いまの実家の隣にはその前から家が建っていて、当時すでに古かったような記憶がある。
現在はもちろん立て替えられて、当時とは別の人が住んでいる。

小学校一年生で私が移り住んできたとき、隣家は上坂さんという一家が住んでいた。
私の父は高校教師だったのだが、隣家の上坂さんもあるじは高校教師で、父の同僚だったように記憶している。
上坂先生には奥さんと四人の子どもがいた。
四人のうち三人は女の子で、ひとりは男の子だった。
みんな私よりは年上だった。

唯一の男の子は一郎ちゃんといって、耳が不自由な人だった。
耳が聞こえないので、うまくしゃべることもできない。
私が小学生の頃は、一郎ちゃんは高校生で、聾啞学校に行っていた。
耳が聞こえないのは、赤ん坊のころひどい麻疹にかかったその高熱のせいだということだった。

一郎ちゃんは水泳が得意で、身障者の部門の水泳で全国大会に出場するほどの記録を出していた。
金メダルを見せてもらったこともある。

一郎ちゃんがしゃべる言葉は私にはよくわからなかったけれど、両親はわかるらしくて、私に通訳をしてくれた。
一郎ちゃんはたくさん本を持っていて、児童文学全集のようなものが自分の部屋の本棚に並んでいた。
私は一郎ちゃんとそこそこ仲がよかったので、時々部屋に遊びに行って、しばしば本を貸してもらった。

『ガリバー旅行記』『十五少年漂流記』『海底二万マイル』『少年探偵団』『巌窟王』といったワクワクする本をたくさん貸してもらって、読みふけったものだ。
その体験が、私を小説書きに向けさせたのかもしれない。
いや、たぶんそうだろう。

まだ再会できていないけれど、一郎ちゃんはその後、理髪師の資格を取って、散髪屋になったらしい。
いまは福井県立病院のなかで理髪店をやっているらしい。
また、一郎ちゃんの姉は結婚して、県立病院の真ん前の土地に自宅を建てて、そこに暮らしているらしい。
そのことを、今日、母から聞いた。

来月10月10日に、私は縁あって福井県立病院のロビーでピアノコンサートをやらせてもらうが、その話が県立病院前の一郎ちゃんのお姉さんに母から伝わり、知り合いを誘って来てくれるという話だ。
とても楽しみだ。
でも、きっと、お姉さんの顔は覚えていないだろう。
話せば思い出せるかもしれない。
一郎ちゃんは耳が聞こえないけれど、彼も聴きに来てくれればいいのに、と私はひそかに思っている。
耳が聴こえなくても音楽は楽しめるし、また耳が聴こえない人にも伝わわるような演奏をしてみたいと、私は思っている。
一郎ちゃん、仕事中かもしれないけど、ちょっと休みを作って来てよ。