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2012年8月22日水曜日

「恨み」という感情の扱いかた

photo credit: Funky64 (www.lucarossato.com) via photo pin cc

夏は怪談である。
恨みを買って呪われると恐ろしいことが起こるというのが怪談の定石だが、えい、そんな話をしようと思って書きはじめたのではない。

私はあまり人を「恨む」という感情がないほうだと思うが、恨むという感情そのもののことは理解しているつもりだ。
自分ではそのつもりがないのに、知らずに人の恨みを買ってしまうというようなことが、だれにでも起こる。
もちろんわざわざ恨まれたくてそのような行動をしたわけではないのだが、結果的に恨まれてしまう、ということがある。

この「恨み」という感情についてかんがえてみたい。
「恨み」は「悲しみ」と「痛み」に裏打ちされた「怒り」の表現である。
こちらがなにかしたことが、思いがけず相手のニーズをふみにじり、結果的に悲しみと痛みを引きおこし、怒りとなって発露する。
ときにははっきりとした形として発露することなく、相手のなかにブスブスといつまでもくすぶったり、陰湿な形でこちらに間接的に降りかかってくることもある。
やっかいな感情だ。

こちらを恨んでいる相手は、こちらを理解し受け入れる気もないし、エネミーイメージでとらえている(敵視している)のでそもそも一個の感情とニーズを持った人間として見てくれない。
そういう相手とどう付き合っていけばいいのか。

これはもう、そういう相手にも「共感を送りつづける」しかないのだ。
これは相手とつながろうというよりも、自分を守るためである。
自分を恨んでいる相手もまた自分とおなじ感情とニーズを持った人間であり、こちらからは敵視することなく共感を送りつづけることで、恨まれている自分にもまた自己共感していくプロセスを確保する。

自分を敵視している相手にたいして、こちらを敵視しないように変えるのはとても難しいし、現実的には不可能に近いといっていい(経験がある人ならわかるだろう)。
もし変えられるものがあるとしたら、こちら側の態度だ。
たいてい敵視されてしまったとき、あきらめのなかで相手との関係を絶って身を引き、暗い窪みにうずくまるのがせいぜいだ。
そうではなく、こちらの態度を変えることで、相手との関係性をひょっとしたら変えることができるかもしれない。

こちらの態度を変えるというのは、あきらめて引っこむのではなく、相手に共感を送りつづけることだ。
もっとも、共感を送りつづけるために相手に直接コンタクトする必要はない。
離れた場所からでも、相手に声がとどかない場所からでも、共感を送ることはできる。
自分のなかで相手にたいする共感を送りつづけるだけだ。

敵視されている相手に恐怖を持っていても、離れて安全だと感じられる場所からなら、落ち着いて共感を送ることができる。
だれかに共感を送るというのは「その人の感情とニーズを推測しつづける」ということだ。
それ以上のものではない。
ただこれだけのことで「自分が」変わる。
こちらが変われば、相手との関係性も変わる。

ただしこれは、もうひとつの前提を大事にした上での話だ。
それは、相手に共感する前に、自分に共感しておく、ということだ。
だれかから恨まれたとき、悲しみや恐れや不安を抱いている自分の感情を見つめ、自分のニーズにしっかりとつながっておく。
自分のケアをした上でないと、相手にたいする共感もうまくいかない。

もうひとつコツがあるとしたら、自分の事情を説明しない、ということだ。
相手が恨んでしまった原因がこちら側にあって、それが誤解だったり、こちらが意図しないことであったりして、それを説明しようとしてもたぶんうまくいかない。
相手がこちらを敵視しているかぎり、こちらのいうことに耳を貸すことはないからだ。

もし直接コンタクトする機会がおとずれたら、実際に相手に共感的な言葉をむけてみる。
「きみが私に怒りをおぼえているのは、きみの○○のニーズが損なわれたせいかな?」
相手の状態にもよるが、ひょっとしたらそれに返事をくれるかもしれない。
くれなくても落胆する必要はない。
それでも確実に関係性は変化しているはずだから。

自分を恨んでいる相手にも共感を送りつづけられるなら、薄暗い窪みに身を沈ませておびえることもない。