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2012年8月23日木曜日

「完成度」を目指すプラクティスはどれも無意味なのか

photo credit: Thomas Hawk via photo pin cc

という質問コメントをもらった。
昨日書きこんだ「現代朗読基礎講座でこんなことを話した(1/3)」に対するコメントだ。

私が、
「よく、演劇なんかで稽古のあとでダメだしってのをやるんですけど、あれはホントにろくなことないです。何一つ生産性がないです、あれは」
としゃべっていることに対する質問で、質問者は完成度の高い、間断ない反復努力を積み重ねて作りあげられていく芸術表現に対して、とても深い敬意と尊重の念を持っていて、それを大事にしておられるのだろうと思う。
最初にことわっておくが、私もそういうことをないがしろにしているわけではない。私も伝統的な芸術に対する尊重と尊敬の念はある。
そもそも私自身が長い反復努力が必要なピアノ演奏技術を習得してきた人間なので、完成度をめざすプラクティスを必要とする芸術表現があることまで否定するつもりはまったくない。

とことわっておいた上で、質問にこたえたい。
質問はこのようなものだ。

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「完成度」を目指すプラクティスはどれも無意味と言うことになりますか。
例えば、ボリショイバレエが昨日までの伝統を一歩でも超えようと、緊張感のなかでバレリーナも裏方も三位一体となってステージを作り上げるのは、愚かな行為でしょうか。そこでもダメだしは無意味と?
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最初から前提が違っているのだが、私が「ダメだし」という行為に生産性がないといっているのは、現代朗読という現場においてである。
つまり、現代芸術表現=コンテンポラリーアートを作る場において、ダメだしという手法は無意味だといっているのだ。
そもそも、コンテンポラリーはある一定の完成されたイメージをめざして作りあげられるものではないし、表現者をオーディエンスよりすぐれた存在として誇示するためのものでもない。
ねらっていたものではないものもどんどん出てきてしまう、多分に偶有性をもった一個の生命体としての人間がおこなう表現行為を、正直に誠実にオーディエンスの前に提示し、共感的なコミュニケーションを成立させることが目的なのだ。

「子どもの無垢な絵や歌は文句なく素敵と思いますけど、それは、その歌や絵の完成度ではなく、子どもの「存在」そのものを捉えているからだと思います」

そのとおりだ。
私たちは自分の「存在そのもの」を提示したいのだ。
となると、完成度という言葉は別の角度からとらえられなければならない。

質問者は「存在への共感」と「現象への感動」は別物である、と指摘しているが、私も同感だ。
ただし、現代朗読では「現象への感動」をめざすことはしない。
最初からなにか作り上げられ、企まれたものをめざすことはしない。
結果としてそうなることはありうるが、それを目的とはしない、ということだ。
私たちは存在そのものの不安定と偶然性のなかで、それをありのまま受け入れ、尊重しながら、誠実に表現をおこなっていく。

「何かを見たあと、うわーっホンットーに詰まらんかった!と思うことってありますよ。こんなもんさらしてナメとんのかー!ってこと」

質問者は人になにかを見せたり与えたりするとき、心をこめてきちんと準備し、誠意を持ってあたることをとても大切にしているんだね?
でも、私たちもおなじことだよ。
誠実・誠意であることの方法と考え方が違うだけで。

感情の話をしているけれど、
「そういうとき、感情丸出しにそう叫ぶことは無意味でしょうか。喜怒哀楽は穏やかに表現しなくてはいけないものでしょうか」
そんなことは私はひとこともいっていない。
むしろ逆でしょう。

私たちは自分の感情をとても大事にしている。
いまこの瞬間、自分がどのように読みたいか、そのことをあらかじめたくらんで準備しない、という態度を取る。
ある現象をあらかじめ準備してねらわらない。
「完成度」は結果であって、目的ではない、ということだ。
なにしろ、私たち人間は、いまこの瞬間にでも激情にかられて叫びだしたくなるかもしれないのだから。
そしてそれをすべて引き受けていくこともまた、私たちの方法なのだ。