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2012年6月21日木曜日

げろきょの朗読者たちが私をここまで連れてきてくれた

photo credit: © Salim Photography/ www.salimphoto.com via photo pin

人生はよく旅にたとえられる。
たしかにそれは時間の旅であり、境遇の旅である。
私の人生も終盤に差し掛かろうとしているが、楽しいばかりの旅ではなかった。

しかしいま、旅の終わりに差し掛かって、自分が幸せであり、思いもかけない場所に立っていることを感じる。
自分では決して望んでいなかった場所に、いま、私は立っているが、それはとても美しい場所であり、予想もしていなかった幸福を感じている。

私は北陸の自然豊かな片田舎で幸福な少年時代をすごし、思春期に音楽や小説といった表現芸術にめざめた。
京都で学生生活をはじめたが、それはごくみじかい期間で終わりをつげ、やがて音楽で生計を立てるようになった。

20代は音楽で、つづいて30代は小説で生計を立てていた。
自分ではやりたいことで生計を立てられることで幸福だと思いこんでいたが、それは商業経済のなかで資本に利用されていたにすぎなかった。
しだいに窮屈さを感じ、つぶされてしまう前に商業の世界と縁を切ることにした。

そこからは経済的に苦しい時間が長くつづいたが(いまもつづいているが)、精神的にはゆっくりと楽になっていった。
2006年に現代朗読協会を設立。
前後して安納献からNVCを教えてもらう。
さっそく組織運営にNVCの手法を取りいれる。

試行錯誤の連続だったが、共感的表現と、共感的コミュニティとしての現代朗読協会(げろきょ)が少しずつ形をなしていった。
ことわっておくけれど、私はそれを意図していたわけではない。
気がついたらそういうことになっていて、私の恣意ではなく、参加してくれているみんなのニーズが方向性を自動的に決めていた、というだけの話だ。


いま、ふと気がついてみたら、私は現代朗読というあたらしい表現方法のまっただなかにいて、それを主宰している。
また、そこから派生した音読療法も、個人が自立するための職業として確立できることはたしかで、これをオーガナイズしている喜びがある。


私がここにこうやって立っているのは、げろきょのみんなのおかげなのだ。
と感じる。
私がこういうことを作ってきた、というより、ふと気がつけば、げろきょのゼミ生にここまで連れてこられてしまったんだ、という感じがする。

この場所に立ってあたりを見渡せば、とても美しい風景が私には見える。
それはだれもだれかの下にもいなければ、上にもいない世界。
お金で雇われたり、雇ったりしない世界。
優位に立ったり、立たれたりしない世界。
共感的で、全員がお互いのニーズを大切にしている場所。


じつはこのところ、いろいろとオーバーワークで、ちょっとしたパニックにおちいってしまった。
そのことが身体の変調に出てきて、以前だったらそんなことには気づきもしなかったのだが、私なりにマインドフルの練習をしていたので、その変調に気づいた。
このまま放っておいたら、ちょっと大変なことになる、結果としてみんなにも迷惑をかけてしまうことになる。

卯妙さんがそれを受けて、げろきょのゼミ生たちに救援メッセージを出してくれた。
するとたちまち、ゼミ生たちからサポートメッセージが届いた。
自分にできることはないか、こんなことができる、あるいは当面できることはないかもしれないけれどできることがあればサポートしたい、などなど。

そのひとつひとつが涙が出るほどうれしかった。
私をこの美しい地に連れてきてくれたのは、この人たちなのだと思った。
たとえ、昨日ゼミ生になったばかりの人でも、げろきょの精神に共感してくれて入会してくれたわけだ、生まれて以来ずっと共感してくれていたともいえる。


今日、ある事情でゼミ生をやめて、げろきょを去った人がいる。
私も大好きな朗読者で、これからもっとたくさん、作品を残したり、いっしょに活動したかった。
とても残念だ。
でも、その人から、心のこもった長いメールが、たったいま届いた。

本当ならそのメールを全文紹介したいくらいだが、プライベートなメールだし、大事にしておきたいので、公開はしない。
でも、きっとその人も、げろきょという美しい場所にいずれ戻ってきてくれるだろうと確信している。
だから、寂しくはない。

ここは私の大切な場所だ。
なにをおいても守りたいと思う。
私の力のかぎりをつくしてこの場所を守っていくことが、私の最後の仕事なのだと思っている。