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2012年3月12日月曜日

映画「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」を観た

3D映画とかどうとか、どうでもいい。入口で渡された3Dメガネは何人もが使った脂でギトギトで(洗わないのかね)、かけたらぼやけて画面がよく見えないほどだった。しかたなく、手持ちのティッシュペーパーでゴシゴシふいて使った。それでもまだにじむような気がしたが、映画が始まったらそのことも忘れた。
 始まった瞬間から最後のクレジットまで1時間44分、一瞬たりとも眼をはなすことができなかった。ずっと心臓がドキドキして苦しいほどだった。

 ピナ・バウシュという、いまでは故人となった人が、画面のなかに生きている。いや、正確には画面ではなく、踊りのなかに生きているのだ。
 彼女が踊り、伝え、育てた踊り手と作品があり、そのなかにピナが生きている。そのことを強く感じた。感じたのではなく、事実として受けとることができた。
 人が死んでなお生きつづけているということの実例が、ここにあった。

 コンテンポラリーダンスという方法は、伝統的なものや社会的制約、思いこみを取っぱらい、すべてから自由にあることで、人の肉体と存在の尊厳を取りもどそうというものだ。ピナはダンスという方法を使ったが、私はできうることならば朗読(=音声表現=身体表現)という方法でおなじことをやろうとしてきた。が、「ピナ」を観て、まだまだ私はとらわれすぎているし、自由にもなれていない、くだらないことをおもんぱかってばかりいることに気づかされる。
 大きな気づきをもらい、叩きのめされ、落ちこみ、同時に活気づけられ、勇気をもらいもした。

 そしてヴィム・ベンダース。
 まちがいなく彼の最高の仕事だと私は思う。ピナの振り付けに音楽を付け(普通は逆)、アートムービーとしてのクオリティを高めた。とくに後半はベンダースの映画表現として意識的に作りこまれ、それはピナのダンスと共演しながら最高のアートムービーになっていた。
 20世紀芸術であるコンテンポラリーダンスが、20世紀エンタテインメントであるムービー表現と結びついて、21世紀アートムービーとしての可能性を見せてくれているような気もする。

 いま、思うのは、ひとつ。
 もう一度観てみたい。
 付け加えるならば、現代朗読のゼミ生たち全員がこれを観てほしい。私が日頃いっていること、いいたいことが「ダンス」あるいは「映像」という形でここにある。