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2011年8月29日月曜日

少年王者館「超コンデンス」@下北沢ザ・スズナリを観てきたなり

なるほど、マスゲームだ。
声とダンスと音楽と照明と映像と演技を使った、緻密なマスゲームに違いない。

わがげろきょ(現代朗読協会)の仲間であり、オーディオブックリーダーの窪田涼子が出演しているというので、スズナリまで少年王者館の本公演を観に行ってきた。
王者館の本公演を観るのは、窪田涼子が出演するようになりはじめてからこれでもう3度めか4度めになる。
ストーリーはまったく重要ではない。一種の現代美術、インスタレーション、パフォーマンスのようなもので、座長の天野天涯の個人的メッセージを集団で表現するといっていい。
分断されたストーリー、言葉、動き。ストップモーション、暗転によってしばしば変化する細切れのシーンと逆もどりする時間。絶え間ない音楽。フラッシュのような照明。舞台に投影されるビデオ映像、文字、そして舞台そのものやあらかじめ録画された役者の動き。
ひとつひとつ取ればとくにあたらしいものはないが、構成が緻密で、綿密に組み立てられたパズルのような舞台だ。セリフひとつ、動きひとつ、きっかけひとつ間違っても、全体がずっこけるだろう。そういう緊張感はある。
役者もパズルのワンピースで、数人のメインキャストを除いて、ほかは全員、極端に押し殺した表情と極端に誇張した動き、そして極端にデフォルメした発音・発声で個性を殺している。
窪田涼子もそのマスのなかにいるのだが、彼女が別の役者と交代しても、ステージのイメージは寸分も変わることはないだろう。
これは天野天涯氏の個人的な「スタイル」なのだ。観客はそのスタイルを楽しむために劇場に来る。
観ているうちに、私はだんだん悲しくなっていく。

マスゲームを好む人はたくさんいるし、マーチングバンドであったり、サーカスであったり、シンクロナイズドスイミングであったり、人間が協調して一糸乱れぬチームプレイを楽しむ気持ちがあることを否定するものではない。ただ、私がそれを好まないだけの話だ。
私はステージ表現においても、ひとりひとりの個性と多様性が生かされ、また時間と空間と役者のコンディションや観客のありようによって刻々と変化していく一種のコミュニケーション表現を作りたいと思っている。少年王者館とは真逆の方向性といっていいだろう。
そして窪田涼子は、たったひとりでも誇るに足る資質を持った個人表現者だと思っている。
たとえば、YouTubeで発表しているこの「祝祭の歌」
そして、「気の毒な奥様」
ほかにもたくさんある。
マスの一部品として埋もれるような人ではない。いや、すべての人がマスの一部品として埋もれるようなものではない。すべての人が自分の存在と自由な表現を保証され、輝かせられることが理想なのだ。
もちろんそれは、天野天涯氏にもいえることだが。そして、もうひとつ。窪田涼子自身の個人的ニーズを私も否定するものではない。それは尊重する。

それにしても、「超コンデンス」という天野天涯氏の個人的作品に2時間という時間は必要だったのだろうか。
平日の昼間なので70人くらいしか入りませんよ、と事前に聞いていたのだが、開演時間には席はほぼ満席のぎゅーぎゅーで、どう見ても100人以上ははいっていただろう。つまり、それだけ天野天涯の王者館は人気があるということなのだろう。笑い声も多くあがっていた。
王者館のステージを見終わっていつも思うことだが、天野天涯氏はステージではなく、ビデオや映画のほうが向いているのではないだろうか。