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2011年8月4日木曜日

朗読原稿を書く

昨日はほぼ一日、朝から夕方までコンピューターの前でテキストを書いていた。
来週9日(火)、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉でやる「猫のうた」ライブのための朗読テキストで、げろきょゼミ生のまぁやと瀬尾明日香の二人に読んでもらう。いわゆるセリフのかけあいだが、芝居のシナリオではなく、あくまで朗読テキストだ。

私はもともと小説家であり、活字になり製本された形が最終型であるテキストを書いていた者だが、同時にラジオ番組の制作にも多くたずさわってきた。
ラジオ番組では、ナレーターに読んでもらうためのスクリプトを多く書いていた。それはナレーターに読まれて(音声化されて)初めて成立するものだ。しかし一方で、小説家の性質が「活字として読んでも成立するようなもの」を同時にめざしていたようにも思う。
(参考「水色文庫」)

朗読テキストもそうだが、朗読者に読んでもらって(音声化されて)初めて、作品として成立する。と同時に、活字として読まれたときにも作品として成立するように書くこともできる。そもそも朗読テキストは活字作品として書かれたテキストを用いることが多い。
朗読テキストを書くというのは、私のなかでは特別な位置づけだ。
私が朗読テキストを書くとき、まず、だれか特定の朗読者を想定していることが多い。芝居でいえばいわゆる「あてがき」というやつである。今回はまぁやと瀬尾あすかがそれにあたる。
彼女たち(彼ら)に読んでもらうことを想定して書くとき、そこにはまず彼女たちの声がある。身体がある。人格がある。
さらに、彼女たちが立つ場所(ライブスペース)や共演者やオーディエンスもある。
私はそこでピアノを弾く。その音もある。
さまざまな実体が音声化の現場で想定される。それらを思い描きながらテキストを書いていく。これはあきらかに、そのような想定のない小説を書く作業とは質が異なる。
もうひとつ、時間の想定もある。小説ではありえないが、何分で読めるか、という想定だ。

いずれにしても、朗読者を想定し、それが実際にどのように読まれるのかは、作者の予想を超えることがしばしばある。というより、ほとんど毎回、予想を超えたことが起こる。それが楽しくて朗読テキストを書くようなところがある。
作者の想定を超えて現場でリアルに起こること。予測不能の事態。これこそテキストの実体化の醍醐味であり、ライブの魅力だ。
このライブは来週9日(火)下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて。