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2011年8月15日月曜日

習作&講評「ウツセミ」石川月海

オンライン「次世代作家養成塾」がスタートしています。塾生は随時募集中です。
世田谷・羽根木の家でリアルに集まっておこなっている「テキスト表現ゼミ」のメンバーも、作品発表や塾長からの講評・アドバイスの場の一部としてオンラインに合流しています。メールマガジンで取りあげる作品も、ゼミ生/塾生の分け隔てなく選んでいます。ご了解ください。

テキストのオリジナリティはどこから生まれるのか。
たとえばこの養成塾で「オリジナルティを生み出す方法」を全員が習得できれば、ここからそれぞれのオリジナリティを持った書き手がたくさん生まれることになる。オリジナルティは「差異」であって「優劣」ではないから、表現本来の目的である「みずからの内在欲求の表出」とその結果による「つながりのクオリティ」の確保にもってこいである。

という前置きはさておき。
皆さんがある文章を読んで「この文章にはオリジナリティがある」と感じたとき、それはなにをもってそう感じるのだろうか。
ストーリー展開、言葉使い、意外な比喩、思いがけない会話、さまざまな要素があるだろう。たくさんの要素があるのだが、それらをひとつひとつ検討し、つぶしていくのは大変だ。これらを一括して、まとめて磨きあげる方法はないだろうか。
ひとつある。
それは「ディテール」を磨きあげる方法だ。
具体的な方法についてはおいおい詳しく述べる予定だが、ここではこの石川月海の作品を例に取る。

空虚な現代の生活のなかで、セミの抜け殻のようになっている「ボク」。
うつろなのだが、だれもが知っている痛々しさや焦燥のようなものが見え隠れしている。その心理をくどくどと心理説明をすることなく、描写と独白でつむいでいく。
ここには多くの人が共感できる空気感/手触りのようなものがある。
が、と私はあえていう。この文章の手触りはどこかで読んだ覚えがある。ライトノベル、若手の純文学作家、ケータイ小説、サウンドノベル、そういったフィールドでよく見かける手触りに近い。つまり、ここに描かれている空気感は一般的に共感を得やすい「こんな感じ」ではあるけれど、石川月海の存在そのものの感触ではない。

ここでディテールの話に戻る。
たとえば、
「遮光カーテンを閉め切った部屋で、もう何日、ずっと、ただ、横たわってる」
という描写は、石川月海でなくても、このように書くことはあるだろう。では、「石川月海ならどう書くべきなのか」ということだ。
この閉め切った部屋はどんな部屋なのか。横たわっている場所はどこなのか。そこはベッドなのか、床なのか。ベッドだとしたらどんな形なのか。なにを着ているのか。裸なのか。痩せているのか、太っているのか。子どものころに転んでできた頬骨のところの傷はまだ残っているのか。
実際に書かなくてもいい。しかし、このようなディテールを作品のなかに潜ませることで、それは「だれかの文章」ではなく「石川月海」の文章になる。なぜなら、「そのような部屋に横たわっているそのようなボク」は石川月海のなかにしかいないのだから。
それができれば、どんなつまらないストーリーも、書き手の存在そのものになる。いやむしろそうなったらストーリーなど邪魔でしかないだろう。
自分のなかをすみずみまで照らしだしてみること。それがテキスト表現の重要な所作のひとつだ。

(以下、作品本体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

※オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。