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2011年8月18日木曜日

与えられた欲望ではなく真に内在する欲求を見極めたい

つねづね私は「マインドフルネス(mindfulness)」というものを推奨しています。
朗読を始めとするパフォーマンスをおこなうときだけでなく、日常生活においてもいつも心がけ、練習するようにすすめています。
マインドフルネスというのは、簡単にいえば、「いまこの瞬間」に「ここで自分であること」への意識の集中のことです。

人の心やありようの乱れは、
「すでに起こってしまってもはやどうすることもできないこと」
をうじうじと悔やんだり、
「まだ起こってもいないこと」
をくよくよすることから生まれます。いまこの瞬間、自分と自分の周りのことに意識を向け、それをきちんと味わうことに平安と幸福があるのです。それはこれまで、さまざまな宗教や思想のなかで語られてきたことです。
でも、いまは宗教的な話をしているのではありません。

マインドフルネスを心がけて生活しましょう、というと、かならずそれに異をとなえる人がいます。
「そんなふうに刹那的にいまのことばかり考えていると過去の反省もできないし、将来の計画もできないじゃないか」
というわけです。刹那的に生きる人間が増えてしまって、社会がこんなふうにどんどん悪くなってしまったのじゃないか、と。
私はそれは違うと考えます。すべての人が「真の意味で」マインドフルに生きることができれば、このような荒涼とした社会にはなりえなかったのではないか、と。

真の意味で、いま、この瞬間、自分がなにをしているのか、なにをしたいのかに意識を向けられること。これは現行の経済優先主義・効率優先社会のなかでとても難しいことです。われわれはたえず、効率を求められ、お金儲けを優先し、将来設計をしいられています。「現在」はそのための「準備期間」としてしか機能していません。
そのなかで、資本主義というシステムは人々に「ある欲望」を意図的に植え付けます。その欲望は人類500万年の歴史のなかで一度も人々が持ったことのない種類のものです。それは独占欲、拡大欲、所有欲、権力欲、自己誇示欲といった、それは人が本来持っているものではない欲望です。

資本主義の本質とは「エスキモーに氷を売りつける」ごとく、いかに人に所有欲を持たせ、金や物品を多く消費させるか、というシステムです。
産業革命以降に生まれた資本主義経済は、生産と消費が果てしなく拡大していくという絶対前提で成り立っています。銀行預金に利子がつくのも、ローンやカード払いに利子がつくのも、すべて成長原理の上に計算されています。だからいったん成長が止まるとその経済は破綻するのです。
アメリカのプライムローン問題がそれでした。そして実は、プライムローンを何十倍も上回る規模の矛盾を、いまの経済システムは内包していて、いつ崩壊してもおかしくない状況だといわれています。

いま個人個人にとってもっとも重大な事実として、私たちが自分の欲望だと思っているのは実は社会から与えられた後付けの欲望である、というのがあることです。私たちはもともと、所有欲も独占欲も持ってはいません。持っているのは、安全に生存していたい、心を許せるだれかとおだやかにつながっていたい、というニーズだけなのです。それは自分のなかの奥深い場所を静かに見つめてみれば、だれもがわかることでしょう。
また、もし食事がなくて、住むところがなくて、子どもに乳を与えられなくて困っている人がいれば、私たちは本来手を貸すことに喜びを感じる生き物です。喜んで自分が持っているものを分け与えますし、だれかよりよい家に住んだり、高級な車に乗りまわすことに喜びを感じたりは、本来、しません。自分がだれかの役に立ち、安心できる居場所があれば、それでいいのです。
そういう状況のなかで、与えられた欲望ではなく真の意味で自分のやりたいことはなにかと見つめたとき、どんなことが自分のなかから生まれてくるでしょうか。
作物を作ることでしょうか。
料理をすることでしょうか。
身体の不自由な人を介助することでしょうか。
歌うことでしょうか。絵を描くことでしょうか。
子どもたちに教えることでしょうか。
愛し合うことでしょうか。

真の意味で人々が与えられたものではないみずからのニーズに従える社会。そしてそのことがお互いに尊重できる社会。
そういう社会はどのような手触りを持つでしょうか。
そのような社会を実現することはもはや不可能なのでしょうか。
私は可能性はゼロではないと思っています。
ひとりひとりがマインドフルに生きること。いまを気づき、楽しむこと。多くの人がそのようにすごせるようになったとき、世界の風景は一変するのではないかと思うのです。
いま、この瞬間の自分に目をむけ、本当に自分がやりたいことを自分にやらせてあげましょう。