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2011年8月12日金曜日

映画「蜂蜜」を観た、すごい

トルコの監督セミフ・カプランオールの「蜂蜜」を観てきた。
カプランオールは「ユスフ3部作」といわれる「卵」「ミルク」、そしてこの「蜂蜜」で一躍有名になったらしい。私は「卵」も「ミルク」も観ていない。
主人公はユスフという6歳の男の子。言葉に障害を持っているが、大好きなお父さんの前ではしゃべることができる。他の人はそのことを知らない。お母さんも知らない。
お父さんは森のなかで蜂蜜を集める仕事をしているが、このところ蜜蜂がいなくなって生活が困窮している。お母さんは茶畑で働いているが、過酷な労働の割には賃金は安いのだろう。
そしてお父さんは、ある日、森に出かけていったまま帰ってこなくなる。
ユスフを取り巻く社会的な背景と同時に、一家が住んでいる山のなか、森の風景がこの映画の醍醐味といっていいだろう。

茶の産地らしく、多湿で、多雨な風景だ。道はいつもぬかるんでいる。しかし、山々や森林は美しく、日本の風景と大変似ている。
そんな豊かな自然のなかで暮らす、質素で、つつましい人々。ちょっと宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を思いだした。ユスフの父のヤクプは、マタギの淵沢小十郎にちょっと似ている。
カプランオールは記号を注意深く排し、ストーリー性を丁寧に排除し、静謐な映像の積み重ねのみで言葉にできないものを観客に伝えようとしている。それは、記号に満ち「こうすりゃ受けるだろう」「こうすりゃ泣けるだろう」といった作り方をされている現代商業映画に真っ向から抵抗するもののように感じられる。このカプランオールの闘い(といってもいいだろう)は、映像表現における人間性の回復の闘いそのものといっていい。

「蜂蜜」を観ながら、私は一瞬一瞬のシーンに魅入られ、心を動かされ、また叱咤激励されていた。
記号的なシーンといえば、エンディングに近く、それまでミルクを飲むことを一切拒絶していたユスフが、お母さんのために決意してミルクを飲みほすシーンがある。ユスフの成長を表しているシーンだろうが、それとて控えめだ。
また、学校で先生から、優等生の印の赤いリボンを付けられるシーンもあるが、それもいかようにでも解釈できるように作られている。

そして、この映画には「音楽」がないのだった。
いや、準備された「映画音楽」はないのだが、全編、森の音、鳥のさえずり、雨や風、雷の音、人の声に満ちている。それが音楽そのものに感じられる。

唯一残念だったのは、これが「デジタルカメラ」で撮影されている(であろう)ことだ。
アナログフィルムでの撮影に比べると、やはり圧倒的に情報量が少ない。手触りが違う。これだけの美しい風景の、なにか多くの質感が落ちてしまっている。
しかしそれもやむをえないことだろう。というより、このような撮影と編集機材の「パーソナル化」によって、これだけの映画がほとんど一個人で作れるようになったともいえる。
それなのに、なぜこのような映像表現者が日本から現われてこないのか、私はそれが残念でならない。