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2011年7月31日日曜日

朗読の時間

ライブや公演において、どのような朗読作品を選ぶかについて、みなさんけっこう苦労されているようだ。
とくに苦労するのは、その「時間」だ。
長さ、あるいは、短さ、といってもいい。
そもそも文学作品は、最初から朗読されるときの時間を考慮して書かれてはいない。雑誌や本に掲載するために字数を制限されることはあっても、朗読原稿としては(ほとんど)書かれない。まちまちな長さの作品のなかから、時間軸の制約がある朗読表現のための原稿を選ばなければならない。
著作権が消滅した作品を勝手に都合よく改変して読んでしまう人もいる。しかしそれはやはり、いくら亡くなっているとはいえ、著者に対する敬意がなさすぎるといえる。といっても、長すぎる作品をそのまま朗読するわけにはいかないことが多い。
私の場合、作品をやむなくカットすることはあるが、読む部分についてはできるだけ手を加えず、ある集合でまとめて読んだりカットしたりするようにしている。できるだけ文章の手触りをそのまま残した形で朗読したいからだ。つまり、素材はなるべく細切れにしない。

朗読するには何分くらいがちょうどいいのか、と問われることがある。
朗読表現に「ちょうどいい」時間などない、というのが私の考えだ。
あらかじめちょうどいい時間など設定することはできない代わりに、どのような朗読をおこないたいのか、という表現者側の心づもりがある。それを抜きにして、朗読の時間の長短を決めることはできない。詩のようにズバッと一瞬で通りすぎるように読みたいこともあるだろうし、数十分、場合によっては一時間を超えるような長尺朗読に取りくみたいこともあるだろう。狙いによって長さは変わってくる。当然のことだ。

朗読者は自分とオーディエンスが共有する時間のことを考える。それは自分の内側と外側を同時に見る作業となる。音と時間に対するとぎすまされた感覚が必要になる。ある作品をどのくらいの時間で読むのか。この作品とこの空間でどのようなクオリティの表現をおこなうのか。
常々くりかえしいっていることだが、朗読とは空間と時間軸を表現者とオーディエンスが共有することで成り立つ表現行為である。つまり朗読者は、空間と時間に対する繊細な感受性を持つことが望ましい。待ち合わせ時間に平気で遅刻するような朗読者は私には考えられない。
朗読者に限らず、音楽家、ダンサー、俳優、こういった時間と空間を用いるパフォーマーはすべてそうだろう。一流といわれるパフォーマーで時間にルーズな人を私は見たことがない。すべてのパフォーマンスは、その時間にその場に立つことでスタートするのだ。

「15分くらいがちょうどいい朗読時間だろう」みたいな考えで朗読作品を選ぶのは、まったくもって残念なことだといわざるをえない。
私たちはひとしく「死に向かう病」を生きている。時間は表現者の上にもオーディエンスの上にもひとしく流れる。