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2011年7月20日水曜日

人はどうやって作家や詩人になるのか

「作家」といっても美術や音楽、演劇などの世界にも名乗る人がある。ここでは話をわかりやすくするため、文章を書く人に限定しておく。「作家養成塾」もテキスト限定だ。
作家はどうやって作家になるのか。
世間が「彼は作家だ」と認めるとき、そこにはどのような評価が働いているのか。
「作家で食えている」
「著書がある」
「ある程度知名度がある」
その他、テレビに出たことがあるだの、週刊誌で連載を持っているだの、大衆的な評価基準もあるかもしれない。これらを満たせば満たすほど、「作家として世間で認められている」ということになる。
あくまでもすべて「外部評価」である。

ここで私は疑問を提示しておきたい。
作家という職業は、外部評価を気にしながらおこなうようなものなのか、と。

そのとおりである、という人もいるだろう。食うためには、一定以上売れる作品を書くためには、世間の評判や動きを気にしないで書くなんてことはありえない、と。
しかし、それは本当の作家のありようなのだろうか、と私は思うのだ。
そもそもなぜ作家はものを書くのだろう。

作家には、いや、ものを書く人にはふたとおりのタイプがある。

1. 自分の内的衝動からやむにやまれず書くタイプ
2. 人に評価されたくて書くタイプ

ふたとおりに分類してはみたものの、賢明な方はすぐに気づくであろう。ものを書くのはもともと「1.」の衝動から始まっている。衝動というと大げさだが、子どもが絵を描いたり歌をうたったりするのとおなじ「楽しい」からすべては始まるのだ。
あなたはもう忘れたかしら。あなたが文字を書けるようになって、ノートを自分の字と言葉で埋めていくことがとてつもなく楽しかったことがあったことを。
すべての作家は「1.」からスタートする。
しかるのちに、「2.」になっていく人もいれば「1.」にとどまりつづける人もいる。
私はちょっと特殊な例で、もちろん「1.」からスタートしたのだが、途中で「2.」へと転向し、ふたたび「1.」へと戻って、現在もそこにとどまりつづけている人間である。
あなたはどちらのタイプになりたいのか。

ライターという職業がある。
彼らは注文が来てはじめて仕事をする。つまり、文章を書く。注文がなければ、余計な文章を書いたりはしない(ふつう)。しかるべき時にそなえてエネルギーを温存している。
作家という人種は、本来、注文があろうがなかろうが、やむにやまれず文章を書きつづけるのだ。書かなければいられないのだ。書くことそのものが生きることなのだ。多くの絵描きや音楽家がそうであるように。
まれに売れっ子作家になってしまったり、食うために書きつづけなければならなくなったりした者は、注文をやたらと受けて注文に追われて書いているように見えることもある。それをまた自慢げにひけらかしたりもする。とてもあわれで、寂しい人たちだ。真の内的衝動を押し殺し、自分の魂をマーケット経済に売り渡して生きている。

話をもどすが、人がものを書く、ものを書いて自分を表現したい/だれかに伝えたい、という内的衝動は、やむにやまれぬものであり、苦しいことでもあるがしびれるほどの喜びでもあり、そしてそれは「外部評価」とはまったく関係のないことである。
自分が世間から作家だと見られているかどうかなんて、書いている本人にはまったく関係のないことであり、彼はただ好きなことを好きなように書くだけなのだ。
外部評価を気にしだし、
「こうやったら受けるだろうか」
「この話で泣かしてやろう」
「ベストセラーをねらってやる」
などということを考えはじめた瞬間から、彼は真の作家ではなくなり、たんなる商人になる。
自分が書いた作品が人に受け入れられるか、売れるか、受けるかは、たんなる結果であり、作家自身の内面や資質とはなんの関係もない。
作家であれ、詩人であれ、その人がそれたらしめるのは、その人のメンタリティでしかなく、世間の評判や外部評価はまったく関係のないことなのだ。

という考えのもと、オンライン「次世代作家養成塾」では「本当の作家」を生みだすべく、文章表現の原理の深淵にまでダイブしていこうと思っている。

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