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2010年8月14日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.40

「Kenji V」ではタイトルが示すとおり、5名の朗読者にテキストが割り振られている。演劇だとこれが「キャスト」となり、役者は自分のセリフを覚えてステージに立つことになる。現代朗読ではそのようには考えない。全員がひとつのテキストを共有すると考える。

たしかに個人が読む部分は割り振られるが、その部分だけを練習しても意味はないという考え方だ。全員がひとつのテキストを共有し、ひとつの表現を作る。たまたま自分が読むのはその場所であるが、それ以外の場所も「読まない」だけで、表現に参加していないわけではない。

自分以外の人が読んでいる間も、自分はおなじテキストをともに体験している。おなじテキストが自分の身体のなかを流れている。その共感性・共時性がひとつの有機体としての朗読グループを作る。なので、現代朗読において「稽古」とはたんなる段取り稽古ではない。

ひとつの作品に参加し、全員でひとつの共感を作りあげる作業が、稽古ということになる。その稽古には当然ながら「〜ねばならない」という考え方はない。共感は強制からは生まれないからだ。みずから喜んで参加し、ともにおなじものを感じあうときに、作品が成立していく。

だから、稽古も「出なければならない」という考え方はなく、「出たい」という喜びを持った気持ちが生まれたときにだけ来てほしい、という考え方をしている。「出なければ」という義務感が少しでもあって、その気持ちで参加したときに、私たちの目的は阻害される。

この考え方を理解し、徹底してもらうことが、実は一番困難なことだ。とくに名古屋のメンバーは演劇や朗読ワークショップなどの参加経験者が多く、なかには劇団員に近いような人もいる。そういう人に現代朗読の考え方をきちんと理解してもらうのはとても難しい。

なぜなら、劇団や公演などの運営は「責任」とか「義務」にもとづいた考え方でなされていることが多いからだ。たとえばだれかが「仕事が忙しいので身体が疲れて稽古に来れない」といったとする。私は「自分のニーズを大事にしてください」と答えるようにしている。

しかし従来の劇団的な考え方だと、「休めば他の者に迷惑がかかる。みんな無理を押して出てきているのに、自分だけわがままで来ないなんて責任感がなさすぎる」といわれる。この責任感と義務感で作りあげられるのが、旧来の非共感的表現作品だろうと思うのだ。

私たちは自発的に表現し、それを誇示し押しつけるのではなく、共感の場を提示するだけだ。その場は義務感で作られるものではないし、もし成立しなかったからといってだれかが責任を取らなければならないような種類のものでもない。メンバーのニーズがなかっただけのことだ。

表現の場に上下関係を作らないので、トップダウンでなにか作られるわけではない。自発的で協同的・共感的なものしかない。このように述べると「宗教みたい」と揶揄する人がかならず出てくるが、私たちはたとえ似た考え方になったとしても、特定の宗教に属するものではない。

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