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2010年8月4日水曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.31

日本でもごく一時期、ネオダダと称して「ハプニング」など前衛的なパフォーマンスをおこなう芸術家が出たことがあったが、ほとんど理解も広がりもないままに消えていってしまった。そういう特殊な芸術事情のなかで、朗読は手つかずのまま原始的な形態で残ったのだ。

念のために書いておくが、私たち現代朗読協会はコンテンポラリーアートとしての朗読だけをやるために集まっているのではない。コンテンポラリーも視野に入れた広々とした視界のなかで、日本の朗読表現をもう一度ゼロから見直してみようというだけのことなのである。

そのなかには「読み聞かせ」などの活動もはいっている。この読み聞かせにしたところで、どこへ指導に行っても聞かれるのが、「どうやればいいんでしょう」という現場の途方に暮れたような声だ。なにをどうやればいいのか、表現原理がまったくないまま行なわれているのだ。

読み聞かせにしても朗読にしても、しばしば指導の依頼がある。NPOということで安心してもらえるのと、若いNPOにしては多くの活動実績があるということもあるのだろう。幼稚園、小中学校、高校、大学の講義にも呼ばれることがあるし、また教員や保護者への指導もある。

私たちの指導は、表現やコミュニケーションの原理にのっとった理論を、現場での数多くの実証実験を経てつちかわれた方法でおこなわれる。そのため、「なぜそうするのか」「どのようにするのか」がだれにもわかるようになっているし、まただれにでも応用ができる。

私たちは私たちが発見した方法を独占するつもりはまったくなく、多くの人に知ってもらってよりよいコミュニケーションや表現に役立ててほしいと願っている。そうすることで、特殊事情で特定のイメージに凝り固まった朗読の世界を、より多くの人に親しんでもらいたいのだ。

これまで書いてきたように、日本では朗読というと、ある特定の限定的なイメージが世間一般にはある。だれかに「朗読をしませんか?」と誘うとする。するとその人の頭のなかには、ステージの上にひとり座ってスポットを浴び、まじめに本を読んでいる自分の姿が浮かぶ。

ひょっとしたらそれは着物姿だったりするかもしれない。そしてオーディエンスは中高年が多く、半分くらい居眠りしている。そんなイメージだ。また、朗読の練習をするというと、滑舌だのイントネーションだのを先生から厳しく指導され、何度も読み直しをするというイメージ。

現代朗読協会のワークショップにやってきた人の多くが、そんなイメージとはまったく違った内容に驚く。とうより、驚くのは、一般の人が朗読に対してそのようなイメージを持ってしまっていることだ。いったいどこでそのようなイメージがついてしまったのだろう。

私も朗読研究会や現代朗読協会を運営するようになって、多くの朗読会、朗読ライブを見てきた。そのほとんどが実に退屈な、予定調和的な、型にはまったものだった。そのイメージで朗読はとらえられており、また世間一般にもそのイメージが刷りこまれているのだ。

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