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2010年7月31日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.28

芸術家は一般庶民とはまったく違う技術レベルを獲得することで、みずからの存在意義と優位性を確保する。そのことで生活を保障される。そういうシステムが19世紀までつづいていた。が、20世紀にはいってから芸術表現にもあたらしい考え方が生まれてきた。

たとえばアメリカの作曲家であったジョン・ケージは、作曲家という「特権的技能者」の地位を、一般庶民とおなじレベルにまで引きさげようとし、また自分自身もそれを実行した。彼は「音楽とはなにか」という根源的な問いをみずからに課し、さまざまな作品を残した。

ケージの作品のなかでもっとも有名なものに「4分33秒」がある。どういう作品なのかは述べないが、この作品でケージが提示したのは、我々が「音楽」だとして聴いているものはなにか、楽譜に書かれていない物音やかすかなノイズは音楽ではないのか、という問いだった。

「4分33秒」はいわゆる「楽譜」ではない。音符はただのひとつも書かれていない。つまり、「音符を書ける」という作曲家の特権的能力を一切使っていない。裏返せば、音符が書けなくてもどんな人でもアイディアさえあれば作曲家になりうることを示している。

275 ケージは「チャンス・オペレーション」という手法を提示している。これは作曲家の恣意を排除するもので、音楽はひと握りの特権階級のものではない、偶然性や環境そのものも音楽の要素であり、だれもが音楽を作り、共有し、楽しむことができる、という考え方を示している。

ケージの言葉で私にとってもっとも印象的なものは、「だれかがだれかに雇われているというような世界が早くなくなってしまえばいい」というものだった。彼は人間の上下関係を嫌い、すべての人が芸術家、表現者になることで、互いに平等な立場になることを望んでいた。

これが現代芸術(コンテンポラリーアート)のしめす根源的な考え方であると私は思う。19世紀以前の、人がだれかより優位に立つための芸術ではなくて、人と人が対等につながりあうための芸術、共感しあうための表現、これが20世紀以降の現代芸術、現代表現だろう。

私自身についていえば、20代のころ音楽を始めたときにせよ、30代で職業小説家をやっていたときにせよ、とにかく人より優位に立つことしか考えていなかった。小説でいえば、だれも思いつかないような波瀾万丈でスリリングなストーリーを考えることしかしていなかった。

人を驚かせ、意表を付き、感心され、そのことで金銭対価を得ようと必死だった。毎日が競争であり、効率追求であり、暴力的な自己推進だった。現代朗読協会で体験ワークショップを始めたとき、初めてそのことの前時代性に気づき、今後目指すべき方向性が見えてきた。

ジョン・ケージの言葉もすんなりと入ってきたし、現代芸術も理解できるようになった。そして、従来の朗読表現がいかに前時代的、技術誇示的であるのか、見えるようになった。私たちはそういうものはもはや目指していない。共感と、場の共有のために表現活動をしていく。

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