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2010年7月24日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.22

人は感覚のひとつを遮断されると(この場合は視覚)、ほかの感覚が遮断された感覚を補おうとして鋭くなる。視覚を遮断されれば、聴覚、嗅覚、触覚、味覚が急速に立ちあがってきて、普段は味わえない鋭敏な感覚を味わうことができる。このときに音を聴かせるとおもしろい。

視覚を遮断されているはずなのにイメージが脳内に広がったりする。普段は聴こえないような微細な音が聴こえたりする。そして自分の身体感覚が非常に敏感になり、「現在」の自分の「存在」をリアルに感じることができる。一種に瞑想体験ともいえよう。座禅に似た効果がある。

デープリスニングを体験したあと、朗読をしてもらうと、どの人も読みがガラッと変わって、聴いている人も読んでいる本人もびっくりする。つまり、自分の身体や声そのものにセンシティブになり、フィードバックが多くなった結果、非常に注意深い読みを行なうようになるのだ。

ディープリスニングそのものは私の発明でもなんでもなく、心理学・生理学的には「感覚遮断」と呼ばれていて、欧米のアーティストではその方法をワークショップなどを通じて広めようとしている人が多くいる。ポーリン・オリヴェロスもそのひとりだ。

彼女には『ソニック・メディテーション』という著書があり、ディープリスニングの手法を使ったワークショップを世界各地でおこなっている。もともとは音楽家なのだが、「聴く」ことの重要性と、音楽家という特権を一般の人々に開放する運動をおこなっている。

彼女に限らず、アーティストの特権性に疑問を投げかけ大衆に芸術表現の権利を取りもどそうという動きは強まっている。私もそういった考えに共感し、たとえば朗読をアナウンサーや声優やナレーターや朗読家といった特権階級的な人々から、一般人に取りもどせないかと考えた。

とくに朗読という表現行為は、だれもがすぐにでも始められる敷居の低さがあるので、芸術表現の特権的なイメージを払拭するには最適だ。ディープリスニングのほかにも、現代アートの手法を取りいれたひとつに、表現はコミュニケーションである、という考え方がある。

朗読はコミュニケーションである、というと、最初はだれもが怪訝な顔をする。実際、現代朗読協会でもそうだった。朗読というと、文章を読んで人に伝える行為であり、一方通行のイメージがある。しかし、よく観察すると、それは間違っていることがすぐにわかる。

読む人と読まれる人をよく観察してみる。すると、読む人はただ口を動かして言葉を発しているだけではなく、表情、息使い、そして身体の状態が刻一刻と変化していることがわかる。その変化は聴いている人に伝わり、聴いている人もまるで鏡像のように状態が変化する。

聴く人の身体状況の変化は、当然のことながら、読む人へも逆流して伝わっている。読む人がその入力を拒否せずに受け入れれば、そこにはかなり濃密なコミュニケーションが生まれる。それは非言語的なコミュニケーションでもあるところがおもしろい。

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