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2010年7月23日金曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.21

それはそのとおりなのだ。ワークショップなので最初にみんなに同じテキスト『坊っちゃん』の冒頭部分のプリントを渡して、一度ならず読み合わせをした後だからだ。「そ、そうですね」「あなたはすでに知っている話をこの人たちが聴いて楽しんでくれると思ってるわけね?」

ようやく彼は思い直しはじめる。「話の内容ではなく、ぼくがどういうふうに読んだか、伝えたいんですかね」「そうなの?」「そ、そうです」「だよね。あなたは自分がこの物語をどのように読んだのか、どんなふうに自分はおもしろかったのかを伝えたいんだよね?」

彼はようやく自分がやろうとしていたことに思いいたる。「つまりあなたは、自分自身を伝えたかったんじゃないの?」そこまで問答を続けて、初めて彼は自分がなにをしたかったのかわかるのだ。たいていの人がこのような経緯をたどることを、私は発見した。

これまで1000人近い(ひょっとして1000人を超える)朗読者と個人的に面談をしてきて、経験的にいえることは、朗読者はほとんどの人が自分に嘘をつく傾向がある、ということだ。これは朗読者に限ることではないかもしれない。人は自分に嘘をつく傾向があるといえる。

朗読をする多くの人が、自分に嘘をつく。すなわち、なんのために朗読をするかというと、本の内容を伝えたいとか、作者の意図を汲みたいとか、文章に寄り添うように読みたいとか、きれいな言葉をつらねる。しかし、自分の本当のニーズは、それではない。追求すればわかる。

結局のところ、人は自分自身を表現したいのであり、だれかに自分のことを伝えたいのだ。自分に共感を持ってもらい、つながりを確認したい。そのことが根源にあっての表現行為である。そこを認めることができなければ、すべての表現行為はきれいごとに終わってしまう。

こういう表現の原理はすでに発見されていたものだった。コンテンポラリーアートの世界ではごく普通に考えられていた原理だ。が、日本の朗読界においては、この考え方がほとんど導入されていなかった。そもそも朗読をコンテンポラリーアートの一種と考える人がいなかった。

朗読にもコンテンポラリーアートの思想を導入できないか。それが私の考えたことだった。実際それはそんなにおかしな考えではなかった。ドイツでは100年近く前に「ダダ」という表現主義の運動において朗読にも前衛的な方法が適用されていて、それはいまだに生きている。

このように商業主義とは切りはなされた形で現代朗読協会がスタートすることになった。スタジオは酒屋の地下から、やはり豪徳寺の地下にあった音楽スタジオという絶好の環境に移ることになった。ドルチェスタジオという名前のそこで、さまざまな試みが実行に移された。

思いだすままに述べてみる。酒屋の地下でスタートしたことだが、「ディープリスニング」という試みが何度も実行された。これは、地下スタジオという環境を利用したトライアルで、完全に光を遮断した環境のなかで音を聴いてもらうという、一種の感覚遮断のテストだった。

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