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2010年7月17日土曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.16

文芸朗読といえば、NHKのラジオの朗読番組や、新潮社が出している朗読CD(かつてはカセットテープ)が有名だった。それらの朗読を聴いてみると、読んでいるのは俳優かアナウンサーばかりだ。そして夏目漱石や芥川龍之介などの名作文学が多く読まれていた。

152 私たちも名作文学の朗読を研究することにした。これには理由があって、いずれ読めるようになったら、これを朗読作品として発表したいと思っていたからだ。著作権が消滅した古い文学作品は都合がよかった。夏目漱石や芥川龍之介などの短い作品から勉強を始めた。

夏目漱石の「変な音」「文鳥」「永日小品」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、ほかにもいろいろなものを、とにかく短い作品を選んでやった。研究するといっても、読みこんで、修正し、とにかく完成まで持っていくのだ。完成したものはどんどんネットで発表することにした。

自主的な朗読研究会のようなものを始めてわかったのは、若手声優たちが「朗読」ができないのはけっして技術がないわけではなく、そもそも文学小説の「読み方」を知らないためだ、ということだった。これは学校教育におおいに責任がある。小説の読み方など学校では習わない。

そもそも文芸小説を読むにはいくつかのやりかたがある。一番簡単なのは、ただ読む、好きなように読む、楽しんで読む、という「読者」「消費者」としての読み方だ。たいていはこの目的のために小説は書かれている。しかし、いま私たちはこれを「表現」しようとしているのだ。

表現するために読むには、その小説がだれかによって実際に書かれた時点のことをかんがえ、書くように読みとく必要がある。ストーリー展開、文章構造を考え、視点を明確にし、シーンのスイッチングを把握する。書き手とおなじ「創造者」の地平に立たなければ表現はできない。

若手声優たちはそんなことを考えたこともなかっただろう。いや、若手声優に限らず、多くの声優/ナレーターがそんなことは考えたこともないに違いない。それはこれまで多くの声優/ナレーターに接してきた私の経験が、そのことを確信している。悪いといっているのではない。

学校教育でも専門学校でも養成所でも、そのような読み方をだれも教えていないだけの話だ。たまたま私は書き手であり、文芸テキストがどのように書かれるのかを自分の経験として知っていた。だから、だれかが書いた小説についても、書き手の目線で読み解く方法を知っていた。

それを私はただ彼らに伝えた。そして一緒に名作文学を読んでいった。その過程で私も驚いたことがある。私はひととおり名作文学を読んできたが、それはだいたい中高生のころだった。その頃の読み方は、当然ながら浅く、あらためて読みなおしてみることは有意義だった。

書き手の視点を得たいまになって読み返してみると、あらためて発見することが多かった。とくに夏目漱石という作家の偉大さには、あらためて圧倒されるような心持ちがした。100年も前に、現代小説がやっていることをすべて、あるいはそれ以上の質でやってしまっている。

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