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2010年7月20日火曜日

パフォーマーがナイーブであることと図太くあること

今日は午後からふたりだけの朗読ゼミ。豊津さんとシマムラのふたり。ひさしぶりに梅丘のプラムハウスのほうに来てもらう。豊津さんがタルトケーキを差し入れてくれたので、コーヒーをいれておいしくいただく。
ゼミというよりお茶会のような雰囲気で。

このなかで出た話で、先日の「いちめんの菜の花に私はなりたい」の演目のなかで、ひとりが小さな失敗をしたことについて触れる。
失敗といっても、ほんのささいな段取りのミスで、当然パフォーマンス自体には影響はまったくなかったし、そもそもそういうハプニングが起こらないライブなど皆無といっていい。また、ハプニングが起こることでパフォーマンスのクオリティがあがることはよくあることだし、またそのようにハプニングを利用できるパフォーマーでありたいというのが、現在げろきょでやっていることだといってもいい。
だれもがそのような傾向を持っていて、もちろん私もそうなのだが、失敗をするとつい自分を責めてしまうことがある。これは神経質とか図太いという話ではなくて、価値判断の基準を自分の外側に置いてしまう後天的な「癖」によって起こることだ。仲間に悪いことをしたと自分を責めるのではなく、ミスを「学び」の材料としてとらえれば、より成長するステップとなる。

それとは別に、パフォーマーとはひと前で表現する人のことである。
経験の浅いパフォーマーにとってとても危険なのが、パフォーマンスを見た人から届く時には心ない「批判」的発言である。
実際に経験したことがある方はよくわかると思うが、これはとてもこたえる。時にはそのことで、優秀なパフォーマーの卵がつぶれてしまうことすらある。
私のような図太い人間はなにをいわれてもいまや気にもしないし、またそのような発言をするオーディエンスは「共感的表現」をめざしている私たちとは異なった地平に生きている人なのだと理解しスルーするだけなのだが、まだ経験の浅いパフォーマーには個人的趣向の価値にもとづいた勝手な「判断」を含む「批判的発言」は、とても毒になる。
かつてはものを書く人間も、パフォーマンスをする人間も、出版社やメディアなどのファルターに守られ個人的攻撃を直接受けることは少なかったのだが、いまはネット時代で批判が直接個人に届く時代である。
共感を持たない無自覚な発言が、どれだけ優秀なパフォーマーの芽を詰んでしまっているのか考えると、ちょっといたたまれない気分になる。
少なくとも、現代朗読協会のパフォーマーたちについては、私は全力で守ってやりたいと思う。