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2009年10月29日木曜日

興行とはなにか、あるいは自分を商品化することについて

 人を集めて、お金を徴収して、なにかお見せするイベントのことを総称して「興行」という。イベントは相撲や野球、スケートなどのスポーツをはじめ、サーカス、音楽演奏、映画や演劇の上演(もちろん朗読公演も)など、さまざまな種類がある。
 いうまでもなく「商行為」「経済活動」の一種である。
 美術展や巡回動物園などのような「動かないもの」「ただ展示するだけのもの」は「興行」とはいわないような気がする。
 規模もさまざまだ。一度に何万人も集めるようなものもあれば、数人しか対象にしないようなものもある。が、商行為なので、数人から数十人程度のイベントは「興行」とはいわないような気もする。ライブ、などという。ライブハウスで日常的におこなわれている音楽ライブなども、わざわざ「興行」とはいわない。
 興行には必ず「興行主」がいる。この人(あるいは団体)がすべてを取り仕切る。つまりはお金の管理をするわけだ。見物客からお金を徴収するためのできるだけ大きな「囲い」を作り、入口で料金や、すでに料金を払った証拠となるもの(チケットなど)を徴収する。スタジアムであったり、コンサートホールであったり、あるいは臨時に設置したテントだったり。
 規模が大きくなると、かならず「囲い」を設置する場所の問題が持ちあがってくる。そのために、興行主はそのあたりの土地の有力者に顔が効くものでなければならない。もしツテがなければ、知り合いの顔役に頼んで(つまり金を払って)、囲いの設置にあたってトラブルがないように取りはからってもらう。顔役とのつなぎ役は政治家だったりすることもある(裏金が献金されたりする)。
 日本国中、どんな土地でも、所有者とは別に「そのあたりの顔役」という別枠がかぶせられている。裏社会といいかえてもいい。どの街のどんな場所でもいい、適当なところで路上ライブをするとか、自作の詩を売るとか、なんでもいいがなにか店を広げてみるとわかる。警察よりも先にどこからともなくチンピラが現れて、「ショバ代」なるものを請求される。
 大きな興行というものは、表向きどれほどクリーンな顔をよそおっていても、深部ではそのような裏社会とつながっている。たとえ外タレであろうと、アイドルタレントであろうと、だ。マラソンやオリンピックだってそうだ。
 ここで重要なことは、興行の主役は、イベントの主役である演奏家やダンサーや役者や選手ではないということだ。主役はもちろん興行主なのである。なぜなら、興行は商行為であり、なるべく巨額の利益をあげることが目的なのだから。パフォーマーは商行為のたんなる「駒」でしかすぎない。人気がなくなったらさっさと捨てられるだけだし、替えはいくらでもいる。

 私がライブハウスでピアノの演奏会をやるとする。
 私はひとりでライブハウスのオーナーと交渉し、日時を決め、ミュージックチャージを決め、ペイバックの料率を決める。必要なら自分でチラシを作って、自分で宣伝して、お客を集める。数人から数十人のお客が来てくれるだろう。
 お客はミュージックチャージを店に支払い、その何割かを私が受け取る。数千円から数万円程度の額だろう。その清算が終わったら、イベントは終わる。とてもシンプルだ。
 私がメジャーなアーティストだとする。私の名前ひとつで数千人規模のコンサートを開けるピアニストだとする。となると、話はにわかに経済になってくる。
 あらゆる手段を使って、一番ふさわしい日にちで一番いいコンサートホールを押さえる。巨額の広告費を投じて、テレビ、ラジオ、新聞、吊り広告、折り込み、インターネットなど、さまざまな広告を打つ。番組や雑誌とタイアップする。
 また興行主は、金のネタである私に最高のパフォーマンスをさせるために、さまざまなことをする。移動手段はもちろん、新幹線ならグリーン車、飛行機ならビジネスクラス。あるいは貸し切りのバスを使うかもしれない。ホテルはもちろんスイート。食事はレストランを借り切って、一般人に邪魔されないように手配しておく。
 会場でも控え室は注意深く選び、備品などもチェックしておく。ホールのピアノは専任の調律師が付き、リハーサルのためと、本番の直前、公演が数回ある場合はその合間にすべて調律される。
 事前に広告のための撮影や取材を受けるときにも、きまぎまな気遣いがおこなわれる。そのために何十人という人間が動く。なにしろ、私ひとりの名前でそれらの人々がおまんまを食っているのだ。
 そう、私は商品なのだ。

 恐ろしいのは、一度そのような最高の待遇を受けると、それを忘れられなくなるということだ。自分を一度商品化してしまうと、もちろん商品は経済行動において大切に扱われるものであるから、自分の価値が認められたような気がしてとても満足な気分になる。なので、その後商業価値がなくなってもうそのような待遇を受けられなくなったとき、とてもみじめな気分になるのだ。自殺したり薬物に走りたくなる。
 ひとりでライブのブッキングをする? 普通車で移動? ビジネスホテル? しだし弁当? とんでもない!
 しかし、どちらの状況のほうが自分を大切にしているといえるのか。
 自分が自分であるために、自分自身が自分のことをする。自分はお金のためにだれからも利用されないし、ましてや金を生むだけの商品ではない。自分は生きていまだ学びつづけている人間なのであって、その学びを自分と人の幸福のために役に立てたいと考えているのだ。
 表現者でありたいと望むなら、けっして自分を商品化してはならないし、ましてや興行などに加担してはならない。