ページ

2009年10月3日土曜日

音楽、小説の閉塞感、朗読の開放感・未来性

 学生時代のアルバイトは別にして、生活するための仕事として私は「ヨットインストラクター」「バーテンダー」「バンドマン」「ピアノ教師」「職業小説家」と経緯してきた。現在は小説家、音楽家、演出家、コンテンツプロデューサーなどをボーダーレスにやっているわけだが、世間的な分類でいえば私がおもに関わっているジャンルは「音楽」「小説」「朗読」ということになるだろうか。
 こうやってなんとなく自分が立っている場所をながめまわしていて、ふと気づいたことがある。
 これは私だけが感じていることなのかもしれないが、音楽にしても小説にしても、いま、かなりの閉塞感がある。「過渡期」といういいかたをする人もあるが、私はこの閉塞感は、音楽/小説という表現手段そのもののがいったん経済システムに捕縛され、形式の袋小路に入りこんでしまったところから来ているように感じる。
 本来、音楽/小説とはなにか。どのように表現されるべきものなのか。根源的な問いに立ちかえるときに来ているように思われる。その上で、特定ジャンルとしての未来はあるのかどうか。
 ところが、朗読はなんとなく風景が違うのだ。一見、朗読というと古くさい表現手段のように思われるし、実際そのような枠内におさまった表現が多数見受けられる。また、人々のあいだにもある一定の朗読に対するカビ臭い固定イメージが最大公約数的に存在するように見える。
 が、朗読というジャンルの最大のアドバンテージは、現在のところほとんど商業主義の枠に取りこまれていない、ということなのだ。
 もちろん、商業主義的におこなわれているものもたくさんある。が、マーケットが小さいゆえに大きな資本が入りこむことはないし、大きなお金が動くこともない。これを生活の手段とすることも極めて難しい。経済システムの枠に閉じこめられていない分、ようするに「なんでもあり」の状況がいまあるのだ。
「音楽」小説」「朗読」とならべて見たとき、朗読のなんと開放感があることか。なんと未来に向かって開かれていることか。
 私は逆に、コンテンポラリーアートとしてはほとんど手つかずのこの分野に、小説や音楽を持ちこむことによって、なにかおもしろくて新しいことができるのではないかと思っている。そして実際に試みている。
 朗読に音楽を持ちこむのではなく、朗読の手法を用いて音楽をリメイクする。文学を朗読するのではなくて、朗読で文学をリメイクする。
 私たちがいろいろやっているこの現場で、確実になにかあたらしいことが起こり、生まれつつあるのは間違いない。