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東京新聞の生活部から子どもたちの「音読」についての取材をしたいというので、受けた。
やってきた記者の方は、私の『音読・群読エチュード』を読んで、私の取材することにしたらしい。
記者は女性の方で、ご自分も小学2年生のお子さんがいて、音読の宿題があればよく聞いてやって、「評価」をして先生に返すのだという。
まず私から質問。
評価基準はなんなのか、ということ。
「ハキハキ読めているか」
「姿勢は正しいか」
「つっかえないで読めるか」
の3点だという。
また、子どもに音読させる「目的」や「ねらい」については、学校からは教えられていない、という。
じゃあ、音読のなにがいいと思いますか、とたずねると、わからない、という答えだった。
下調べをした過程で、ほとんどの学校が子どもに音読をさせているほか、学習塾や予備校でも音読を推奨しているので、音読になにか「とてもよい効果」があるのではないかと想像はできる、とのことだった。
ここでまずはっきり申しあげておきたいのは、学校や家庭で子どもが音読する目的と、学習塾や予備校で音読させる目的は、まったく異なる、ということだ。
学習塾では「学習効率」を上げるために音読という手法をとっている。声に出して教科書や参考書を読めば、より理解しやすく、記憶にも残る、というデータがあるから、利用しているにすぎない。
つまり、「テスト対策」である。
学校や家庭で音読をする目的は、テスト対策のためではない。
評価するためでもない。
子どもと大人のよりよいコミュニケーション環境を作るなかで、子どもにのびのびと自分を表現する喜びを体験させるために、音読という手段があると私はかんがえている。
子どもがなにかを読む。
大人はそれを聞いて、その子の「読み方」を評価するのではなく、その子の心や身体の状態や発しているメッセージを「完全に」受け取る。片手間ではなく、きちんと聴いてやる。
弱々しい声で読んでいれば、
「もっとハキハキと読みなさい」
ではなく、
「今日はなにかあったの? どこかだるいの?」
と共感を向けてやる。
大人が自分の音読を完全に聴いて受けとってくれるとわかったとき、子どもはどれだけ安心し、楽しくなり、また読みたいと思うことだろう。
評価ではなく共感でしか子どもの能力を真にのばしてやることはできない、ということを、そろそろ我々は学習してもいいのでないだろうか。
学校では先生方が「評価軸」というなかで子どもを管理している。
そのシステムからすぐに逃れることはとても難しい。
心ある教師からそのことについての悩みは多く聴いている。
しかし、現行の文部省管理・教育委員会管理のシステム下では、教師の持てる裁量はとても限られている。
しかし、家庭での親の態度については、だれも制限するものはない。
せめて家庭では、親は自分の子どもとほんの1分でいいからきちんと向かい合い、自分の子どもを評価するのではなく、完全に受け入れて「それでいいんだよ」と抱きしめるような音読の聴き方をしてはどうだろうか。
そうすれば、どれだけ子どもが安心して家でくつろぎ、また自分の能力をだれにはばかることなく最大限に発揮する元気を持てることだろう。
そんなことを今日の取材で話した。
このような現代社会では特異な考え方を、新聞がどこまで書いてくれるのかはわからないが。