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2011年10月31日月曜日

朗読や音楽における成熟したオーディエンスとは

 内田樹氏が書いた「さよならアメリカ、さよなら中国」というブログ記事に、資本主義についてのわかりやすく書かれていたのがおもしろく、紹介します。

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資本主義は「勝つもの」がいれば、「負けるもの」がいるゼロサムゲームである。
この勝ち負けの振れ幅が大きいほど「どかんと儲ける」チャンスも「奈落に落ちこむ」リスクも増える。
だから、資本主義者たちは「振れ幅」をどうふやすかに腐心する。
シーソーと同じである。
ある一点に荷重をかければ、反対側は跳ね上がる。
どこでもいいのである。ある一点に金が集まるように仕向ける。
「金が集まるところ」に人々は群がり、さらに金が集まる。
集まった金をがさっと熊手で浚って、「仕掛けたやつ」は逃げ出す。
あとには「そこにゆけば金が儲かる」と思って群がってきた人間たちの呆け顔が残される。
その繰り返しである。
このマネーゲームが順調に進むためには、消費者たちはできるだけ未成熟であることが望ましい。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
だから、資本主義は消費者の成熟を好まない。
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 なるほど。
 私はふと、朗読や音楽のリスナー(オーディエンス)のことを考えました。資本主義、つまり商品経済においては、オーディエンスもまた成熟してもらっては困るかもしれません。CDやDVD、あるいはネットコンテンツ、ライブチケットといったものが、集中的に売れるためには、オーディエンスが未成熟であり、均一の価値観でおしなべられていることが必要だということになります。
 だから、テレビは消費者をよりバカにしようとがんばるし、音楽業界も多種多様な音楽を売るのではなく均質な音楽を大量に流してオーディエンスの成熟をはばもうとするのでしょう。
 オーディエンスが多種多様な価値観を持つまだに成熟し、その購買行動が予測不能になっていけば、資本主義者はとても困ります。
 私たち表現する者は、まさにそれに対する戦いを生きているといってもいいかもしれません。

 また、資本主義社会における人の消費行動について、TPPを引き合いに出して書かれています。

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TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
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 これを表現の場でのチケット料金にあてはめるとどうなるでしょうか。
 一円でも安いチケットのほうがいい、と考えるオーディエンスは、その表現が衰退しても構わないと考える可能性があるということになります。その表現を衰退させない、応援したいと考えているオーディエンスは、一円でも安いほうがいいとは考えませんね、きっと。少しくらい高くても観に行きたい、と考えるでしょう。
 自分のことに引きつけて考えると、それは納得できます。
 逆にいえば、表現者は自分のパフォーマンスの場を成立させるための料金について、一円でも安く、などとは考えないほうがいいということになります。自分が表現をつづけていくためにどの程度のお金が必要なのか、そのための価格設定を堂々とすればいいのかもしれません。
 表現作品や表現の場と、商品経済・資本主義経済を切りはなして考えたほうがいいというの、私がいつも主張していることですが、表現ばかりでなく我々の社会構造そのものにもそのような考え方が必要な時代になってきたように思います。