「評価を手放す」という話を、私はくりかえしくりかえしします。
今日もします。
本当はとてもシンプルで、そうややこしい話ではないんですが、私たちの頭のなかがそれを受け付けないようにややこしい構造に教育されてしまっていて、しかもそのことになかなか気づけないというところに問題があるのです。
自分を「わかってもらいたい」という動機で文章を書くのも、結局は「評価」をもとめているからです。
冷たいいいかたに聞こえるかもしれませんが(実はそうではありませんよ)、自分以外の人間に自分を「わかってもらう」というのは、事実上不可能です。そもそも、なにをもって「わかった」とするのか、その点も問題です。
文章で自分を人に伝える、というのは、「わかってもらう」ためではありません。なにを伝えるのかというと、自分という存在そのものの感触を伝えるのです。
私はここにいます。私はこんな手触りです。私はこんな匂いです。私はこんなものが好きです。私はこんなことが嫌いです。私はこんな痛みを感じています。私はこんな快感を覚えています。
そのような抽象的な事象を、あたかも読んだ人が経験したかのように伝えることができるのが、小説や詩という創作装置です。うまくやれば、それ以上のことを伝えることができます。
でも、それは結果でしかありません。「これを伝えたい」と思って書いても、けっして「これ」は人に伝わらないでしょう。その証拠に、メールやブログでものすごく気をつけて、あらゆることに配慮してなにかを書いても、必ず読んで不快になる人はいます。思いもよらないレスポンスをもらって困惑した体験は、だれにでもあるでしょう。
だからこそ、評価を手放すのです。自分の外側にある予測不可能な価値観をいちいち気にしていたら、「私」を表現することなどできません。「私」をうまく表現できたとき、そこにはひとつの「世界」が生まれます。テキストで表現された「私」から生まれた世界です。その「世界」には普遍性があります。
さて、今日は神崎乃理の作品を取りあげます。たぶん、初講評ですね。
おばあちゃんに対する愛、適切に対処できなかった深い後悔、そしてお母さんの愛情に満ちた言葉で救われる気持ちなど、よくあらわれている作品ですね。
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