愛知の語りっ娘・小林沙也佳ちゃんから「今日で通算200回の語りをしました!」といううれしいメールが届いた。うれしいと同時に、びっくりだ。知り合って7年間、ずっとその語りの成長を見させていただいてきたが、それがもう200回とは!
沙也佳ちゃんは軽度の知的障碍を持っていて、数年前に豊田の高等養護学校を卒業した。それからはTBクリエイトスタッフという会社の全面的支援を得ながら、語りの活動に専念している。
彼女の語りを聴いた人はだれもが深く感動し、ときに心から笑い、ときに涙を流す。
豊田に住んでいた彼女が初めて東京の私のところにやってきたのは、中学校3年生、まだ14歳のときだった。
お母さんの淑江さんは、彼女のために語りの脚本を書いていて、ふたりの語り活動はまだほんの端緒についたばかりだった。
沙也佳ちゃんを語り手としてより成長させたいというお母さんの思いで、ネットで検索して私の朗読研究会を見つけ(そのころはまだ現代朗読協会は発足していなかった)、指導をしてほしいと、わざわざ豊田から東京まで沙也佳ちゃんを連れてやってきたのだった。
たしか、なにかのワークショップの最中だったと思う。私は沙也佳ちゃんの語りがどういうものなのかまったく知らなかったので、なんの先入観もないまま、
「とにかくなにか聴かせてください」
とお願いした。そのとき語られたのが「いのち」という語り作品だった。
彼女が語り終わったとき、そこにいる全員がボロボロに涙していた。私も同様で、とにかく心を揺さぶられた。こんな語りは聴いたことがなかった。
「今後どうすればいいんでしょう」
というお母さんに、
「とにかくなにもしないでください。このまままっすぐ伸ばしてあげて」
とお願いしたことを覚えている。
その後、沙也佳ちゃんと淑江さんは私のところに通いつづけてくれ(それはいまでも続いている)、いろいろな経緯があって、私も沙也佳ちゃんの活動をサポートすることになった。
まずは「いのち」という作品に音楽を提供すること。
それを皮切りに、私がピアノを弾いて一緒の舞台に立ったり、CDを作ったり、さらにいくつかの曲を提供したり、舞台作りのお手伝いをしたり、語りのアドバイスをしたりと、数えきれないほどの経験を共有してきた。それは私にとっても宝物の経験である。
この過程で私は、知的障碍を持っている彼女にたいして、自分が指導者であるとか、先輩であるとか、ただの一度も考えたことはない。断じてない。私はつねに彼女の共演者であり、サポーターであるという立ち位置でやってきた。それは淑江さんも保障してくれるだろう。
語りの共演者であるというのはどういうことか。それは、語りを最大限生かすことを考えながら、しかし自分と語りとの有機的なつながりを持った舞台を実現することだ。あたかも一緒におなじ道を歩きながら相手の話を完全に聞き、ときに自分の意見も差し挟むような行為だ。自分と語りが共にそこに存在し、生きている、それは二度とおとずれないフレッシュなものであり、準備されたものでもなければ、たくらまれたものでもない。毎回ユニークな瞬間なのだ。
そのことを私は沙也佳ちゃんから教えられた。
彼女は毎日懸命に練習する。
お母さんに怒られながら(厳しいのだ、これがまた)、何度も何度も読みの練習をする。そして彼女は「お話」そのものになる。一心不乱に「お話」そのものになる。それと共演するとき、共演者も一心不乱にお話そのものになる。お話のなかで沙也佳ちゃんとひとつになる。
そのときお客さんもお話そのものになる。会場がひとつになる。それは、ここで太鼓を鳴らすとか、ここから音楽を入れるとか、ここで静止するとか、そういった段取りを越えた世界なのだ。
「自己主張」とか「自己表現」という言葉の意味についてあらためて考えさせられる。
なぜなら、沙也佳ちゃんはそのとき、自分のことなど微塵も考えていない。彼女が考えているのはお話のことだけ。純粋に語ることだけ。そのとき、我々の前には、小林沙也佳という語り手が圧倒的な力を持って立ち現れる。私もただその世界のなかに入って行くだけ。
彼女はいま、その7年200回の活動を通して多くの支援者を得てきた。これからもそれは増え続けていくだろう。
私ひとりが支援してきたような顔をしているように見えるかもしれないが、決してそんなことはない。
彼女を支援しているすべての方に大きな感謝を持っている。