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2010年1月31日日曜日

現代朗読公演「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」のお知らせ

現代朗読協会ではコンテンポラリー・アートとしての朗読公演を試行していますが、今回、極めつけの挑戦的な内容の公演をおこなうことになりました。
会場は小さなライブスペースですが、舞踏や現代音楽など、前衛表現の試みを数多くおこなっている場所です。
以下にご案内をいたします。

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朗読は言葉をつむぐことから始まる。いや、始まると思っている。では沈黙が沈黙のままであるとき、そこには。
「沈黙の朗読-記憶が光速を超えるとき」
一日だけの事件。

沈黙が沈黙のままであるとき、そこにはなにが見えるのだろうか。あるいは、言葉を時間と空間から取りさっていったとき、出現する沈黙はただ空虚なものなのだろうか。
すでに人々が体内に持つ豊穣な沈黙を体験するための朗読があってもいいのではないか。
朗読が沈黙に向かうとき、そこになにが生まれるか。なにが見え、なにが聴こえるのか。
結果はあなたしか知らないだろう。

◎日時 2010年3月6日(土)
 第一回15時開演(14時半開場)
 第二回18時開演(17時半開場)

◎会場 Live Space plan-B
 http://i10x.com/planb/
 (164-0013)東京都中野区弥生町4-26-20 モナーク中野B1
 中野富士見町より徒歩7分

◎料金 前売2,500円/当日3,000円

脚本 水城雄
朗読 榊原忠美(劇団クセックACT)/演奏 MIZUKI
オープニングアクト 菊池裕貴(東京藝大先端芸術表現科)
制作 現代朗読協会/協力 アイ文庫

詳細と予約はこちら

問い合わせ live@roudoku.org / 090-9962-0848(現代朗読協会)

I'm Grad There Is You

 を〈水色文庫〉のほうに書きこみました。
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2010年1月30日土曜日

「沈黙の朗読」のウェブサイト

「沈黙の朗読」公演があと一ヶ月すこしに迫ってきて、チラシも出来上がってきました。
 ウェブサイトを作ったので、ご覧ください。
「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」のウェブサイトはこちら

いま読んでいる本:できそこないの男たち

『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』『動的平衡』と読んできたが、福岡伸一の本はいつもおもしろい。
 やや文学的に走りすぎる感はあって、きっとロマンチックな人なんだろうと思うけれど、このストーリー仕立ての感じが、科学者の書く文章の独特な冷たさというか「臭さ」から離れて、科学者でない者にとってはちょうどいい。
 サイエンス・フィクション(SF)というジャンルがあるけれど、この人の書くものは「サイエンス・ミステリー(Science Mystery)」とでも名付けたくなる。

 この本は分子生物学の発見、男を女ではなく男にする秘密の鍵「SRY遺伝子」について、スリリングなミステリーを読むように楽しめる。

『できそこないの男たち』福岡伸一/光文社新書


2010年1月29日金曜日

iPhone3Gでビデオが撮れる「Qik VideoCamera」

 iPhone 3GS にはビデオ録画機能が最初からついているが、その前の世代の iPhone 3G にはビデオ録画機能はついていない。Jailbreak すればビデオ録画できるソフトが使えたのだが、Jailbreak なしでビデオが撮れるソフトが出てきた。
 3GSでも使えるそうだが、その利点は?
 ズーム機能や、リアルタイムエフェクト、ランドスケープモードなど、けっこう付加機能がある。
 試してみたが、メモとしての録画としてまったく問題なし。ビデオカメラを持っていないときのとっさのビデオメモとしては、これで十分だ。

おもしろブログ記事のまとめサイト

 たぶん、iPhone や iPad の記事を書いたからだろうと思うが、このところ、このBLOGの訪問者数が急に増えた。
 皆さん、どこからやってくるのだろうと眺めていたら、あるサイトに私のBLOGが紹介されているのを見つけた。
「おもしろブログ記事のまとめサイト」というサイトだが、ここに私のことが「ブロガー」と書かれていた。
 なるほど、ブロガーねえ。その称号を使われたのは、たぶん初めて。変な感じ。

 あと、最近の変わり種検索キーワードでは「iPad 譜面」というのがあった。
 私とおなじく、iPad に譜面を表示させて、ライブ演奏のときに使いたいと思っているミュージシャンがいるのだろうか。

最近読んだ本:日本辺境論

 もうこの人のは、一種の「語り芸」ですね。本を読むというより、講演を聴いているみたいで、いささか無理のある論法も「ノリ」で持って行かれてしまう。それがまあ、楽しいのだが。
 辺境論もおもしろいが、いつもの「教育論」「学び論」が「語り慣れている」せいか、説得力があってよい。

『日本辺境論』内田樹/新潮新書


「ライ麦畑よ、さようなら」サリンジャー死去

『ライ麦畑でつかまえて』や『フラニーとゾーイー』『ナインストーリーズ』を書いたJ・D・サリンジャーが死去。
 91歳。
 ずっとコーニッシュで隠遁生活を送っていたが、長生きしたね。
『ライ麦畑』がもっとも有名だろうが、私は短編集の『ナインストーリーズ』を愛読した。
 また、隠遁生活後のサリンジャーをターゲットにしたノンフィクション『サリンジャーを追いかけて』や、実の娘が父との確執をあらわにした『我が父サリンジャー』なども興味深く読んだ。
 小説家の死は、小説の死についても考えさせられる。

2010年1月28日木曜日

アップルのタブレット「iPad」はどんな未来を開くのか

 アップルのタブレット型コンピューターは、結局「iPad」という名称になった。
「Mac」がつかず(MacBook Air みたいに)、「i」がついたことで、iPod や iPhone の延長線で作られていることがわかる。
 スペックなどのレビューはすでにたくさんのサイトに出ているので、ここでは私的使用という側面から見てみることにしよう。

(1) 執筆/文字入力

 優秀なモバイル情報端末としては iPhone ほどコンパクトなものはないが、ネックはこの文字入力の部分だ。
 iPad はどうだろう。
 画面が9.7インチ。その中に iPhone とほぼおなじインターフェースの仮想キーボードを表示されて、それをタッチして入力する方式のようだ。そこそこの大きさがあるので iPhone よりは入力しやすいだろう。が、物理キーボードほど快適というわけにはいかないだろう。
 それについては、オプションとしてドックをかねられるキーボードがオプションで出るようだ。コンパクトなもので、もちろんデザインはアップルらしくクール。メールや執筆にはこれで充分かもしれない。が、「外付け」というところがいまいちすっきりしない。
 文字入力がストレスなくできるとなると、あとはエディターやワープロソフトが使えるかどうか、ということだ。
 発表では、iWork(WindowsのOfficeのようなソフト)が走るといっている。ついでに、iPhone SDK のようなソフト開発もできるといいのだが。こういうものは出先での空き時間を利用してちょこちょことやりたいものだから。

(2) 情報閲覧

 テキスト表示はなんの問題もないだろう。Amazon の Kindle端末に対抗する位置づけになると思われる。もっとも、Kindle端末の文字表示は反射式(視覚原理的には活字本とおなじ)であり、iPad はコンピューターや iPhone とおなじ透過式である。
 画像や動画、音声を含むコンテンツやウェブサイトの閲覧も問題はない。バッテリー容量もそこそこ。
 私の場合、出先でのメールチェックや読書、ウェブブラウジングなどが主になるが、とくに朗読演出やライブの現場でも使えそうな気がする。
 昨日もそうだったのだが、朗読公演の演出をするときはプリントアウトしたシナリオをぺらぺらやりながら進めていく。この部分を iPad に交換できたらおもしろい。また、実際のライブ中でも、シナリオや楽譜などをこれで見ることができるかもしれない。私はライブでは、朗読にせよ音楽にせよ、ピアノに向かっていることが多いのだが、ピアノの譜面台に iPad が乗っているとおもしろいだろう。それにバックライトがあるので、照明のない暗いところでも問題はない。
 私はあまり縁がないが、会議やプレゼンテーションといったビジネスシーンでもおもしろく使えるかもしれない。

(3) 音楽関係

 MacBook を持ちださなければならない最大の理由は、私の場合、音楽演奏で使うことだ。
 この部分を iPhone で置き換えられないか、いろいろやってみて、実際におもしろく使える部分もあるのだが、メインはやはり MacBook になる。これがないと難しい。
 iPad ならどうなんだろう。そもそも、鍵盤そのものをバーチャルに画面に表示し、直接演奏するというようなことはできるだろうか。
 音源、ソフトウェアについては、iPhone App がかなり充実していて、問題はないような気がする。ライブで使ってみたいものだ。

(4) その他、通信やカメラのことなど

 iPhone のように3G接続、WiFi、Bluetooth などが使えるようだが(それがないともはや始まらない)、ケータイキャリアがどこになるのかは不明。iPhone ユーザーなら、iPhone がそのままモデムとして使えればいうことはないのだが。
 カメラがついていない。iPhone があれば写真やビデオを撮るのはこちらですむのだが、Skype などは iPad のほうが有利だろう。MacBook にも標準装備なのに、なぜつけなかったのか不明。
 加速度センサーやGPS、方位磁石は iPhone とおなじく装備。

 さて、この製品でなにが変わるのだろう。
 やはり最大の注目は、電子書籍市場ではないかと思う。これについては、引き続き観察と考察をつづけていきたい。
 もうひとつ。iPhone OS がそのまま走るということで、iPhone SDK でアプリケーションの開発をおこなっている人は、そのまま iPad 用アプリとして流用できるということで、また部屋が広くなった感じがするだろう。

2010年1月27日水曜日

すべーる、アップル・マジックマウス用エアーパッドソール

 Macのマジックマウスは非常にすぐれたマウスで、マウスにしては価格がやや高いけれど、マウスを使った作業の効率が確実に数割は上がるので、それを考えればコストパフォーマンスは高いといえる。
 私の場合、音楽やオーディオブックなどのサウンド編集や、ビデオ編集などでマウスを多様するので、その作業においてストレスが少なくなるのはありがたい。
 その愛用のマジックマウスをさらにストレスフルにする製品があったので、さっそく使ってみた。

 マジックマウスの裏側と机の面に少し隙間を作るための黒い樹脂製のレールのようなものが2本、取りつけられている。エアーパッドソールはそのレールに直接張りつける。
 すべすべした薄いプラスチックのようなテープ状のものだ。
 張りつけてみると、ややひっかかり感があったマウスのすべりが、完全につるつるとした感じになる。最初はすべりすぎるので慣れるのにしばらくかかるほどだ。エアホッケーというゲームがあるが、あんな感じでマウスが浮いたようによくすべるようになる。
 とても使いやすい。
 マウス作業が多い人にはおすすめである。

iPhone専用というわけではないけれどエネループのUSB補助バッテリー

 iPhone はもっぱら「バッテリーの保ちが悪い」という評判だけれど、私はそれほど悪いと感じたことはない。
 そりゃあ、持ち歩いているあいだパソコン並みにネットアクセスしたり、メールをチェックしたり書いたり、ゲームをしたり、GPSでナビしたり、音楽を聴いたりビデオを見たりすれば、そして電話をかけたりすれば、バッテリー容量をどんどん使ってしまうのは当然だ。使い方を棚にあげて普通の携帯電話と比較するのはおかしい。
 それに、iPhone のバッテリーの残り容量を示すアイコンやパーセント表示は、携帯電話の電池マークとは違って、かなり正直に表示されている。携帯電話は電池の残りが30パーセント程度まで減るまで「満」のマークから減ることはない。iPhone は使いはじめるとすぐに「99パーセント」「98パーセント」と正直に減っていくので、「減りが早い」と感じてしまうことはあるだろう。

 私の使い方だと、外出していてめいっぱい使っていると、丸一日保つか保たないか、といったところか。
 一応、念のために、補助バッテリーを持ってはいるが、ひと月に1回か2回くらいしか出番がない。
 そんな希少な出番なので、補助バッテリーはできるだけ軽くてかさばらないものがいい。
 これまでは、やはりエネループの KBC-L2 という四角い形状のものを気にいって使っていたのだが、型がかなり古くなってきた。それに専用の充電用アダプタが必要なのも面倒だ。

 と思っていたところへ、エネループのスティック型ブースターが出た。
 見たとおり、単三型のエネループに2本、細長いケースに収納する形式のもので、油性のマジックペン程度の大きさしかない。それに、iPhone にも正式に対応しているというので、安心である。
 型番は KBC-D1AS。単三型エネループ2本が付属。

Apple のあたらしいタブレットマシンは iPhone OS ベースになるらしい

 日本時間で今日の深夜に発表になるはずだが、アップル社が出すタブレット型コンピューターは、どうやら iPhone OS ベースになるらしい。
 10インチ程度のタッチセンサー付きディスプレイが片面全体を覆っているスタイルであることは間違いないだろう。つまり、でかい iPhone みたいな感じ。
 iPhone OS ベースのOSが走るということは、iPhone のアプリがそのまま使えるようになる可能性がある。加速度センサーやGPS、方位磁石もついていることだろう。

 と見てくると、大して新味はないように思われるが、スティーブ・ジョブスは、
「私がこれまでにおこなったなかでもっとも重要な仕事だ」
 といいきっているらしいから、まだ聞こえてこないなにかすごい仕掛けがあるのかもしれない。しかし、そういうソフトやハードのことをいっているのではないかもしれない。
 音楽やゲーム産業に大きな影響をもたらした iPod から iPhone の流れを、ジョブスが「教育」の方向に向けかけているような気がしてならない。世の中全体が、モノやコンテンツを買うという「消費」から興味が離れていっているいま、なにが有望な産業なのか、ということをジョブスが考えていないわけはない。

Hold Me

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2010年1月26日火曜日

iPhone Photo App の紹介:AutoStitch(写真をつなぎあわせる)

 とても便利に使っているアプリの紹介。
 羽根木の家でワークショップをやるとき、たいてい参加者はぐるりと車座のような形になるので、一枚の写真におさめるのが難しい。そんなとき、この AutoStitch が便利。
 どこからでもいいのだが、とにかく全景をぐるりと標準カメラでぱちぱち写しておいて、AutoStitch を起動。つなぎあわせたい写真をカメラロールから選んでどんどん放りこむ。何枚まで放りこめるのか知らないけれど、10枚くらいは処理できるはず。20枚までだっけな。
 ならべる順番も考える必要なし。写真のつなぎめを自動的に判断して、勝手にならべてつなげてくれる。

 つながった写真ができると、今度は crop モードになり、自動的に四角いイメージ部分を切りとることもできれば、手動で切り取る矩形範囲を動かすこともできる。
 パノラマ写真も簡単にできるし、上下に長いような写真も作れる。
 たとえば、上から下に長いマンガを描いたようなとき、スキャナで部分的に取りこんだものをずらーっと長く一枚のイメージに作ることもできるはず。私はやったことないけど。
 しかし、もちろん、風景写真や室内写真でもっとも威力を発揮する。

One Sweet Way

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2010年1月25日月曜日

iPhoneでカード決済ができるようになる

 Twitter の創業者のひとりであるジャック・ドーセイが、iPhoneなどの携帯端末を使って少額のカード決済ができるようになるサービスを始めた。
 サイトはこちら
 60ドルまでの決済というから、日本円ではまあだいたい5,000円くらいまでと思っておけばいいだろう。とても期待できる。

 なにがいいといって、私のような個人営業者にとっては、少額カード決済が自分でできるなんて夢のようなことだからだ。
 たとえば、私の場合だと、自分が書いた本や作ったCD、あるいはライブや公演のチケットをいつも持ち歩いて、興味を示してくれた人に、
「カードでも買えるよ」
 といって、その場で決済して売ることができる。そういったものの値段が5,000円を超えるようなことは、まずない。
 iPhoneのヘッドホンジャックに差し込む小さなガジェットのようなカードリーダーを使うようだ。ヘッドホンジャックを通すということは、現在も小さな商店(たとえばブティックや飲み屋や美容院など)に置かれている電話回線を利用した決済端末とおなじ仕組みのはずだ。つまり、読みとった磁気データを音声信号に変換して、カード会社のデータセンターと通信するわけだ。
 売るほうも楽だが、もちろん買うほうも楽だ。現金を持ちあわせていなくても、あるいは現金を使いたくなくても、目の前でカード決済ができ、ポイントもたまる。

 ライブや公演の会場で、本やCDやノベルティグッズを売ることが多い。そういうときの決済もこれが使えるのではないか。
 ネットではPayPalのような個人でも使えるカード決済の仕組みが提供されているが、なにしろ手数料を取られるのがばからしい。
 Squareというサービスらしいが、広まるとおもしろいだろう。

だれもが朗読者という表現者になることについて

 子どもから大人まで、青少年からお年寄りまで、サラリーマンから主婦まで、
「さぁ、たったいまから表現者になろう!」
 ということができるのが「朗読」という表現手段の大きな特徴です。
 人は多かれ少なかれ、自分を表現したい、人に自分を伝えたい、という気持ちを持っています。おしゃべりすることも、仕事することも、だれかのために料理することも、表現といえば表現です。いずれもなんらかの形で自分のことが人に伝わります。
 それらを自覚的に、特定の表現手段を用いることでおこなおうとするのが、「表現者」といわれる人々です。
 表現者というと、音楽家、絵描きや彫刻家、小説家、ダンサー、役者といった人たちをすぐに思い浮かべることができます。大道芸人や伝統芸能家、スポーツ選手なども表現者だろう、という人もいるでしょう。
 いずれにしても、それら「特定の表現手段」は、それを用いるためにかなりの技能習熟が必要であり、だれでも表現者になれるわけではない、と思っている人が多いのではないでしょうか。
 たとえば、音楽家。
 ピアニストを例にとってみましょう。
 どのピアニストも三、四歳のころからレッスンをスタートし、大変な時間と労力をピアノの練習のために使います。多くの人がその過程で挫折し、脱落していきます。私も小学校のころからピアノを習っていましたが、おなじピアノ教室に通っていた同級生の女の子たちも、高校生になるころにはほとんどがやめてしまっていました。子どものころにピアノを習いはじめた百人がいるとすれば、そのうち九十九人は高校までにやめてしまうのではないでしょうか。
 それほどピアノを習熟するというのは、時間と努力が必要なのです。
 さらに残ったなかから、ごくひと握りの者だけが音楽大学へ進み、さらにごくひと握りの者だけがピアノを弾くことを生業にすることができます。
 ピアニストだけ見てみても、ほんのひと握りのエリートだけが「表現者」として生きていくことができるという、とても厳しい状況であることはおわかりいただけるかと思います。ましてや、充分に大人になってしまってからあらためてピアノなどの楽器を習熟しようというのは、大変なことです。よほどの時間的、経済的、精神的余裕がなければできることではありません。
 そのような状況はピアノだけでなく、バイオリンやトランペットなどの楽器はもちろん、歌もそうですし、絵画やバレエやスポーツなどでもいえることです。
 ところが、朗読という表現手段は、だれもがいつでも取り組める、とてもすぐれた方法なのです。老若男女、あるいは身体的特徴や障碍の有無を問わず、すぐにでもはじめることができます。これまでこのことに着目する人はあまりいませんでした。
 正直いって、私自身もこのことに長いあいだ気づかずにいました。しかし、いったん気づいてみると、とても明るくて広々とした世界が目の前に広がっていました。
「朗読は表現である」
 そんなことあたりまえだろう、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、しかしよく考えてみてください。朗読において「表現」しようとしているものとは、いったいなんでしょうか。

 音楽においてピアニストが表現しようとしているのはなんでしょうか。曲の味わいでしょうか。作曲家の意図でしょうか。それとも……
 たとえばベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾こうとするピアニストがいるとします。彼はそれを弾くことで私たちになにを表現しようとしているのでしょうか。「エリーゼのために」はこんな曲ですよ、ということを伝えようとしているのでしょうか。
 もちろんそんなはずはありません。その曲のことなら私たちは何度も聴いたことがあるし、よく知っています。いろいろなピアニストによる「エリーゼのために」を聴いたこともあります。そもそも私たちの興味は「エリーゼのために」が「どんな曲なのか」というところにはありません。私たちは、彼がどのように「エリーゼのために」を弾くのか、ということに興味があるのです。
 ピアニストの側もそのことをかんがえています。あまたいるピアニストと比して、自分はどんなふうにこの曲を弾くのか。この曲を弾くことによって自分のなにを伝えようとしているのか。
「表現」とは、自分自身を人に伝えることです。その手段はさまざまであって、音楽を奏でることであったり、小説や絵を書くことであったり、踊ることであったり、野球やスケートをプレイすることであったりします。朗読もそんな表現手段のひとつなのです。
 その定義にあてはめていえば、朗読とは「本を読むことによって自分自身を伝える」表現手段のひとつです。
 ここで確認しておきたいことがひとつあります。それは私が提唱している「現代朗読」(あとでくわしく書きますが)のもっとも大事な部分なんですが、
「朗読は本の内容を相手に伝えることが主目的ではない」
 ということです。
 こう書くと、多くの方が「えっ?」という顔になります。たぶん、多くの方が「朗読とは本の内容を相手に伝えること」が主目的だとかんがえているからでしょう。でもここで、いま直前に述べたピアニストのことを思いだしてみてください。彼は「曲の内容を相手に伝えること」を目的にピアノを弾くのでしょうか?
 そうなのです。朗読表現は本の内容を伝えることではなく、「本を読むことによって自分自身を相手に伝える」行為なのです。

 本にはいろいろあります。便宜上「本」と書きましたが、書かれたもの=テキストだったらなんだっていいのです。詩でもいいし、新聞の切り抜きでもいい。料理のレシピやお菓子の説明書きでもいいでしょう。お店のメニューだってテキストです。実際、ライブでお店のメニューを朗読し、大喝采をもらったこともあります。
 この「テキスト」は音楽家にとっての「楽譜」に相当します。この「テキスト」を使って、あるいはこの「テキストを読む」ことを利用して、自分自身を相手に伝えるのが朗読という表現行為なのです。
 たとえば「蜘蛛の糸」というテキストがあります。芥川龍之介が書いた短い小説です。国語の教科書にも載っています。だれもが一度は読んだことがあるでしょう。つまり、聞き手は最初からそのテキストの内容を知っているわけです。だから、朗読者はこの「蜘蛛の糸」が「どんなお話なのか」を相手に教えるために読むわけではありません。
 もちろん、声に出して読めば、お話の内容は相手に伝わります。相手もお話の内容を聞き取ります。しかし、そこでおこなわれているのはそれ以上のことです。
 聞き手にはいったいなにが伝わっていると思いますか?
 お話の内容が伝わる以上のことが、実はここでおこなわれています。現代朗読はそこの部分に着目します。
 テキストを読むことで伝わるテキストの内容以外のこと。この部分に、自分を表現し、また相手と共感するための大切なことがらが含まれています。そしてまた、現代社会におけるコミュニケーションをかんがえるための大きなヒントがあるのです。

物理キーボードの時代は終わるのか?(Apple iTablet の予想)

 もうすぐ Apple から Mac のタブレット機が発表されるという情報が流れている。
 いまさらタブレットタイプのコンピューターなんか珍しくない、という人もいるかもしれない。実際にこれまでに何度も、いくつものメーカーからタブレット機が発売されては忘れられていった。が、今回は、あの Apple から、というのが焦点なのである。Apple から出るタブレット機は、あのスティーブ・ジョブスが「これは革命的なマシンである」という太鼓判を押したものであることを意味する。

 かつて音楽消費のスタイルに革命をもたらしたのはソニーにウォークマンだったが、ジョブスが投入した iPod と iTunes Store が音楽マーケット全体を塗りかえ、さらにまた iPhone がパーソナルモバイルのスタイルを塗りかえた。今度来るタブレット機は、モバイルコンピューティングの世界を塗りかえるのではないか、という期待がある。
 このところ、モバイル端末は劇的に普及し、ほとんどデスクトップは埃をかぶりつつある。ほとんどの人がラップトップもしくはネットブックしか使わなくなっている。私もそうだし、私のまわりでもそうだ。
 しかし、決定的に変化していないことがひとつある。それは、いずれのマシンも「物理キーボード」の制約から逃れられていない、というものだ。
 どんなコンパクトなマシンにも、qwerty配列を備えた数多くのボタン=キーボードが装備されている。人々はそれをカチャカチャ押して文字を入力するのだ。考えてみれば、このスタイルはタイプライターの時代から変わっておらず、古くさいことこの上ない。

 タブレットタイプのコンピューターの最大の特徴は、物理キーボードがない、ということだ。
 では、どうやって文字入力するんだろう。
 iPhone の場合、画面に仮想キーボードが表示され、それにタッチすることで文字入力をおこなう。タブレット機もおそらくその延長線上の操作方法になるだろう。あるいはまったく革命的な入力方法を提示してくるのか?
 いずれにしても、タブレット機の場合、ソフトを入れ替えることで入力方法をいくらでも変更できる、という利点がある。iPhone がそうであるように。

 たぶん、あたらしいタブレット機は10インチの画面を持つ iPhone と、キーボードのない MacBook の中間のような感じになるだろう。が、なにかそれを上回る大きな、想像もしていなかったようなものを(なにしろジョブスのことだから)出してきて、我々をびっくりさせてくれるのではないかと期待している。

コーヒー

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2010年1月24日日曜日

Twitterの書き込みを日記にしてしまうiPhone用アプリ Momento

 これ、便利。
 Twitter や facebook、flickr に書きこんだ自分のつぶやきやメモを、カレンダー形式に取りこんで日記帳のように整理してくれるソフト。
 私だと、いつ、なにを書きこんだのか、一覧でわかるのが便利だし、タグも使えて検索できるので、日記帳としても使える。もちろん、直接このソフトにテキストを入力して、普通の日記としても使える。

Straighten Up

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2010年1月23日土曜日

「祈る人」1.19

「祈る人」プロジェクトがスタートしました。
このプロジェクトの概略については、こちらをご覧ください。

この映像は、2010年1月19日に中野ピグノーズでおこなわれた「祈る人」の群読の模様をビデオ編集したものです。
「祈る人」プロジェクトへの参加を希望される方は、NPO現代朗読協会にコンタクトください。

これまでの「祈る人」関連映像
「祈る人」のための伊藤さやかによる歌とMIZUKIとのトーク
「祈る人」の野々宮卯妙と菊地裕貴によるツインロードク
「祈る人」の唐ひづると野々宮卯妙によるツインロードク


Someone To Watch Over Me

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2010年1月22日金曜日

Amazon「Kendle」の電子書籍著者印税が70パーセントに

 アメリカのAmazonが「Kindle」で読むための電子書籍の著者印税を50パーセントから70パーセントに引きあげる、というニュースがはいってきた。
 旧来の活字出版について押さえておくと、著者印税は本の定価の10パーセントというのが普通だ。最近では定価の8パーセント以下というような話もちらほら聞いていて、初版刷り部数も少なく押さえられて、著者にとっては非常にサムい状況であることはいうまでもない。
 電子書籍は印刷、製本、流通といった中間コストがほとんどなく、その分、著者の取り分が多くなることは当然だ。また、いったんサーバーにあがれば「絶版」というものはない。売れようが売れまいが、サーバーがある限り本はいわば「店頭に並んでいる」状況であるといえる。そこにその本があることをどうやって知らしめるか、ということを問題にする人はいるが、私はその点はあまり気にしていない。
 必要な本が必要な人に届くには、優れたキーワード検索があればいい。全文検索ができればなおいい。そのためには、著者は自分の著作物をオープンにして店頭においておかなければならない。

 私のウェブサイトやBLOGには、さまざまな人がさまざまな検索ワードでおとずれている。
 たとえば、今日、私のBLOGをおとずれた人の検索ワードを見てみると、
「群読 シナリオ」
「モンゴル デリヘイ」
「logic studio」
「柊麗子 名古屋」
「フリー 朗読」
「雨ニモ負ケズ 解釈」
 といったものが並んでいて、一見なんの脈略もない。しかし、いずれも私がなんらかの理由で書いた文字列には違いない。
 だれがどんな興味で私が書いたものを読んでくれるのか、著者の私は予想もできない。そこがおもしろいと思う。

 近く発表があると思うが、AppleがKendleとおそらくかなり競合することになるだろうタプレット型コンピューターを展開する。
 Appleは iPod で音楽マーケットを支配し、iPhone の App で個人アプリケーションとゲームの世界で大成功をおさめたが、タブレットマシンでは電子書籍や複合メディアコンテンツの取りこみに乗りだしてくることは間違いない。Amazonが著者印税を70パーセントに引きあげたのは、Appleのタブレットマシンを意識した結果であることは間違いない。
 書き手にとってはもちろん、どちらも大歓迎である。

全国教育者研究大会で語りっ娘・小林沙也佳が語ります

MIZUKIが応援している語りっ娘・小林沙也佳のイベント情報をご案内します。
以下のイベントはどなたも自由にお聴きいただけるそうです。入場無料です。
小林沙也佳はオープニングで語ります。その後、教育者向けの会議や公演があるようですが、そちらはとくに参加しなくてもいいようです。
MIZUKIもピアノ演奏でいっしょに出演します。

◎日時
2010年1月30日(土)12:00開場/12:40オープニング

◎場所
普門館
立正佼成会という団体の敷地内にある5000人収容の非常に巨大なコンサートホールです。全国学校ブラスバンドコンクールなどもここでおこなわれているそうです。
東京メトロ丸の内線「方南町」下車、徒歩8分。

◎問い合わせ
教育者教育研究所 03-3384-6757

親知らず

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2010年1月21日木曜日

Depth

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2010年1月20日水曜日

iPhoneで加工する写真アプリ「PhotoTropedelic」ちょっとおもしろい

 iPhoneで使える App でもっとも人気が高く種類も多いのは写真アプリだろうと思う。
 私もいろいろと試している。無料アプリが多いのもうれしい。
 この「PhotoTropedelic」も無料。写真をポップなイラスト風に加工できるアプリ。

 アプリを起動して、写真を取るなりフォトアルバムから読みこむなりして、処理。設定はいろいろできるようで、あれこれ試しているだけで楽しい。
 処理した写真はアルバムに保存されるほか、同一WiFiネットワーク内にあるコンピューターのブラウザに指定のURLを打ちこむことで、コンピューターにダウンロードできる。

 掲示した写真は、ロフトにある私の仕事机の上。
 かなりいい感じにイラストっぽくなっている。

五年ぶりの電話

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2010年1月19日火曜日

沈黙の朗読を書くという、矛盾に満ちているように見えること

 晴。ひさしぶりに気温があがった。ちょっと春っぽい感じになって、ありがたい。
 今日は朝からずっと「沈黙の朗読」の原稿書き。
 沈黙の朗読とは……

 朗読:榊原忠美
 演奏:MIZUKI

 オープニングアクト「Bird Song」
 作:水城雄/朗読:菊地裕貴

 日時:2010年3月6日(土)
 第一回 14:30開場/15:00開演
 第二回 17:30開場/18:00開演

 会場:Live Space plan-B(中野)

 詳細はいずれお知らせするが、朗読とは言葉を発することでおこなう表現である、ことに対して、たとえば「沈黙が主役の朗読」はありうるのか、という問いからスタートしたのが、この作品である。
 普通の朗読でももちろん「沈黙」は存在する。通常「間」といわれる。言葉と言葉の間にはたしかに沈黙が存在する。その沈黙ははたして「空」あるいは「ゼロ」なのか、というと、そうではない。沈黙のなかにもイメージやことばが存在しているのではないか。とくにすぐれたパフォーマーが提示する沈黙には、豊穣さがこめられているのではないか。
 では「沈黙」そのものに着目した朗読と音楽の作品は、どのようになるのか。

 いろいろな書き手や表現者や、たとえば宮崎駿などもよくこんなことをいっているが、
「無意識に釣り糸を垂らす作業」
 私も今日は釣り。なにか釣れるかな。

「祈る人」プロジェクトについて

 現在は活動を休止しているが、2007年から2008年にかけて永倉秀恵というすばらしい歌手のサポートをしていた。多くの曲を提供し、ともにライブを行なったりもしたのだが、その過程でひとつの曲が生まれた。
「ここへとつづく道」という、アイルランド民謡から触発されて生まれた歌詞とメロディを持つ曲である。
 現在、伊藤さやかが歌っているものが、誕生のエピソードとともにYouTubeで公開されている。

 その後、2007年末に現代朗読協会がおこなったステージウィーク「書けなかった手紙」のなかで「祈る人」という朗読と音楽のプログラムを上演することになった。そのとき、永倉秀恵に「ここへとつづく道」を歌ってもらい、その曲とリンクする形で「祈る人」というテキストを書いた。
 それがこの「祈る人」プロジェクトの元になっている。

 2010年、21世紀の最初のデケードが終わりあたらしい年が始まった。が、相変わらず世界は災害、紛争、貧困、怒り、憎しみ、そして悲しみに満ちている。
 人々のあいだにも無力感が広がっている。
 ハイチの大地震に関して、ある若者の言葉を聞いた。
「なにか自分にできることはないかと思ったんだけど、しょせん自分らはなんのスキルもないし、現地に駆けつけても邪魔になるばかりでなにもできないのはわかっている。結局、お金を寄付するようなことしかできない」
 だれかの役に立ちたい、つながりを持ってともに助け合いたい、と思っている人は多い。なのに、いざなにか行動しようとしても、立ちすくんでしまう。
 まず「祈る」ことから始めてみないか、と提案したい。
 祈るとは、だれかに、なにかに思いをはせること。そこから始めて、自分にできることがあれば、たとえささいなことであっても行動していく。それが役に立つかどうかなんてかんがえない。

「祈る人」プロジェクトは、既成の宗教、思想、イデオロギー、団体、勢力、経済活動と一切関係はない。
 私たちひとりひとりが、互いのことを思いやり、ささやかなつながりを持っていくことを願うためのプロジェクトである。

The Sound of Forest

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2010年1月18日月曜日

「祈る人」プロジェクト

 というものを立ちあげようと思う。
 もともと、Sound Sketch というラジオプログラム用に書きはじめた一連のスクリプトシリーズのなかに、「祈る人」というテキスト(詩)がある。2007年12月におこなった現代朗読協会ステージウィーク「書けなかった手紙」のなかでも「祈る人」というステージを作った。
 その後も不定期に、さまざまな場所/シチュエーションで、いろいろな朗読者にいろいろな形で読んでもらっている。

 たとえば、東京ガス展での野々宮卯妙と菊地裕貴によるロードクパフォーマンス
 たとえば、中野ピグノーズライブでの野々宮卯妙と唐ひづるによるロードクパフォーマンス

 このプロジェクト、私のなかでは急速に大きな構想になりつつあるので、少しずつ整理しながら発信していきたい。
 とりあえずは、明日のPignoseのライブでその口火を切る。

 ちなみに、テキスト「祈る人」の著作権を開放します。使用はもちろん、改変も自由におこなっていただいてかまいません。

Heaven Can Wait

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2010年1月17日日曜日

ラジオ局

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2010年1月16日土曜日

iPhone(iPod touch)が音楽製作を変える、の2題

 昨年5月に Apple Store 銀座でロードクライブ「前略なだ草々」をおこなったとき、私は電子楽器のひとつとして iPhone を使った。いくつかのアプリケーションを音楽演奏に使い、実用に耐えうることを実感した。
 その後も続々と音楽関係の App が登場していて、いずれそれらも紹介するが、ちょっとびっくりした音楽ガジェットと App を見つけたので、紹介する。

 ひとつめは、楽器メーカーAKAIが作った「iPhone & touch 内蔵型キーボード」。
 下のビデオを見ればわかるとおり、iPhoneがすっぽりと埋めこめるようになっている。この部分がマシンの頭脳となり、音源、シーケンサー、サンプラーなどのさまざまな機能を提供する。そしてmidiコントローラー(キーポード)でそれを操作する、という仕組みだ。
 電池駆動も可能なので携帯してどこでも演奏できるし、iPhoneの電池もセーブできる。
 本気でほしい。発売はいつなんだろう。



 もうひとつは「Voice Band for iPhone」というApp。
 ビデオをご覧いただくのがもっともわかりやすい。いままでシーケンサーやAWSソフトでちまちまと打ちこんでいたものはいったいなんだったんだ、という話。


An Old Snow Woman

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2010年1月15日金曜日

It Might As Well Be Spring

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2010年1月12日火曜日

It Could Happen to You

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2010年1月11日月曜日

2010年1月10日日曜日

S'Wonderful

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2010年1月9日土曜日

群読シナリオ「声」

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2010年1月8日金曜日

Majisuka Police

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2010年1月7日木曜日

Why Do You Pass Me By

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 スター歌手の母を持つ娘の、揺れ動く気持ち。

2010年1月6日水曜日

mixiというSNSの特殊性をかんがえる

 かなり以前から問題視されていたことだが、mixiはiPhoneを始めとするスマートフォンの利用には、現時点で一切便宜をはかるつもりがないらしい。
 日本特有のケータイ(いわゆるガラケー)には対応しており、またmixiの入会認証にガラケーのメールアドレスを利用する仕組みを使っていた。つまり、ガラケーユーザー以外はmixiを使わないでくれ、という公式メッセージだということだ。
 それでも古くからのmixiユーザーや、ガラケーとの2台持ちユーザーらは、mixiを使っていた。なぜなら、mixiには数多くの魅力的なコミュニティが存在するためである。これはmixi事務局が作ったアドバンテージではない。ユーザーたちが作ったものである。ついでにいうなら、ユーザーあってのものであるという認識を第一に持つことがSNSの本分であろう(つまりmixiという会社はその認識を持っているようには思えない、ということ)。
 私もmixi(の機能やコミュニティ)には多くの恩恵を受けてきたが、ときに見え隠れする狭量な運営方針に徐々に嫌気がつのってきているのも事実だ。
 現実的には、スマートフォンユーザーの市場にmixiを対応などさせなくても、ガラパゴス的日本の特殊事情ユーザーを囲いこむだけで十分な利潤をあげているのだろう。
 しかし、本当にこのままでいいのだろうか。
 いや、まあ、私などが心配することではないのだが。

 日本ではまだまだ、超多機能・超特殊機能付き、そして排他的ケータイネットワーク(i-modeやEZ-Webなど、これはインターネットみたいな顔をしているがまったく別系統)が大きなマーケットを形成し、巨額の利益をあげている。が、時代はじわじわと、しかし急速にスマートフォンに動きはじめていることはまちがいない。
 1年半前のiPhone上陸に始まって、アメリカではグーグルがアンドロイドケータイである「ネクサス・ワン」の販売を開始した。これは日本に間もなくやってくる。iPhoneの獲得に失敗したドコモもKDDIも、アンドロイドの展開に向けて手ぐすね引いていると思われる。グーグルだけでなく、多くの会社もスマートフォン市場に参入しつつある。
 携帯電話の世界も、インターネットとシームレスに接続できることで、機種そのものが世界標準になってきたのだ。世界のだれも、日本の特殊なケータイネットワークに興味は示さない。機種だけでなく、まさに進化から取り残されたガラパゴス諸島のように、ケータイネットワークそのものも独特の奇妙なものとして取りのこされている。
 そんななかにmixiというSNSがぽっかりと浮かんでいる。それはそれでおもしろい風景ではあるけれど。

 私はiPhoneユーザーなので、これまでmixiはPCブラウザか、iPhone App の「mixi mini browser」というなかなかよくできたアプリで利用していた。ところが、これまでにも何度か問題が起きたのだが、mixiの度重なる気まぐれなサイトの仕様変更によって、今回も表示ができなくなってしまった。具体的にはアプリそのものが立ちあがらなくなった。
 まさに今日の午後のことだ。
 たとえばGoogleがそうしているように、mixiもAPIを公開し、仕様変更があったとしても迅速にアプリ側で対応できるようにすればすむ話だと思うのだが、そうするつもりはいまのところないようだ。アプリの開発者も、もうこれ以上のサポートはしない、と宣言して手をあげてしまっている。
 iPhoneでアクセスできることで、Twitterのようにリアルタイムで更新情報を見られたり、自分のエントリーをUPすることもできたのだが、外出時にそれが不便になったのは大きい。このあたりが、mixiと距離を置くためのいい潮時かもしれない。

 じつをいえば、これまでにも何度かmixiと距離を置こうとしたことはあった。一度などは、完全にmixiのIDを削除してしまったこともあった。
 また、最近だと、mixi日記を外部BLOGにリンクさせている。これは更新が楽ということもあるのだが、日記にコメントをつけられないことにもなる。私のエントリーにコメントをつけたい場合は、BLOGのほうで(こちらではコメントを開放している)公開の場であることを前提に書いてもらうことになる。もっとも、ペンネームが使えるので、どこのだれが書いたものなのかは保証の限りではないが。
 それから、これは何度か発言していることだが、mixi特有の身内臭い、狭苦しいネットワークというのが、どうも私の性分に合わない。BLOGでもわかるように、私はプライベートのかなりの部分まで公開しているし、発言も自由におこなっている。そういう風通しのいい雰囲気がもともと好きなのだ。ただし、誤解してもらうと困るのだが、もちろんプライベートをすべてオープンにしているわけではない。オーブンにしたくない部分は書かないだけの話だ。
 最近では風通しのいいシステムがたくさん提供されている。Twitter、Facebook、MySpace、Flickrなど、数え上げるときりがない。mixiのコミュニティは魅力的だが、情報コミュニケーションということであれば必ずしもmixiだけに依存する必要はない。

2010年1月5日火曜日

The Burning World

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2010年1月4日月曜日

アンリ・マティスの七枚の音(2)

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2010年1月3日日曜日

アンリ・マティスの七枚の音(1)

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2010年1月2日土曜日

2010年の学びとスタートダッシュ

 今年の抱負はなんだろう。
 執筆仕事、朗読、コンテンツ制作、それぞれに明確なテーマがあって、それなりに整理できているので、いまさら明らかにする必要もない。
 今年、もうひとつ、どうしてもやりたいことがあって、それは「勉強」。といっても、学校に行くとか、だれかに教えを請う、というようなことはしない。そもそも私はこれまでほとんどそういう勉強法をとってこなかった。いまさら自分のスタイルではない勉強法を試す余裕も時間もない。
 いつも独学だ。ただし、いまはいっしょに勉強しようという仲間/コミュニティがある。げろきょだ。ここは私がこれまで一度も経験したことのない、おだやかで、特定の価値観や立場に縛られない自由な学びの場となっている。奇跡のような場である。私はこのような場をほかに知らない。
 このコミュニティとつながりながら、今年はたくさん勉強したいと思っている。
 一番勉強したいことの核は「文法」である。

 世の中にはさまざまな文法がある。英語や日本語の文法はもちろんのこと、文学の文法、音楽の文法、数学の文法、思想哲学の文法などなど。間違ってはいけないのは「文法」と「語法」は違う、ということだ。
 たとえば、語法がわかれば英語を話せるし、音楽をそれらしく演奏することもできる。が、文法を知らなければ英語を書くことはできないし、音楽を作ることもできない。文法を知れば、それを正しく使うこともできれば、わざと誤ることもできる。
 昨年末、某芸大の発表祭みたいなのを見に行ったことがある。学生たちの作品はフレッシュでなかなかおもしろかったのだが、うすっぺらいものも多かった。語法は知っているが、文法は知らない者による表現の典型である。聞けば彼らは、作品をたくさん見ろ、とはいわれるが、芸術史や芸術論を系統的に学ぶことはほとんどないらしい。作品を見てその語法をまねることは簡単だが、その作品を生んだ文法を見抜き応用することは難しい。たくさんの文法を学んだ者でなければ、個別の表現作品に用いられている(あるいは用いられていない)文法を見抜くことはできない。
 そういう意味で、今年はたくさんの文法を勉強したいと思うのだ。まずは表現芸術分野の文法について調べてみようかと思う。

 それとは別に、今年2010年はげろきょをより多くの方に知っていただきたい。そして、「朗読の見方/聴き方」を深め、理解してもらいたい。クラシック演奏にその「聴き方/姿勢/身体性」があるように、朗読にもある。それを知れば、見えなかったもの/聴こえなかったものがとたんに立ちあがってくる。それを共有したい。そのためにも、今年もたくさんメッセージを発していくつもりだ。
 今年は5日に東京に戻るが、さっそくその日からライブのスタート。
 ほかに、スタートダッシュのように予定されていることども。

1. 1月5日(火)夜 Pignose「げろきょでないと Vol.5」
2. 1月9日(土)18:00-20:00 ゆる〜みんぐ講座 by せ〜じ
3. 1月9日(土)14:00-17:00 ライブワークショップ第三期初日
4. 1月10日(日)10:00-17:00 現代朗読一日講座

 少し先だが、

5. 3月6日の「沈黙の朗読」

 正式名称が「沈黙の朗読 - 記憶が光速を超えるとき - 」となり、チラシの準備に取りかかっている。
 その他、14日夜にはNVC入門、16日/17日にはNVC週末講座が開催される。
 今年もよろしく、なのだ〜。

安全第一

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2010年1月1日金曜日

Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are

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