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2009年11月9日月曜日

「げろきょって大家族みたい」

 ゼミ生の菊地裕貴から「げろきょって大家族みたい」といわれた。とてもうれしい。
 なぜなら、いま、共感的な安らぎのある家庭を持てている人がとても少ないように思えるからだ。

 日本社会の都市化や経済発展が進展するにつれ、かつての大家族から核家族になり、ひとりで暮らす人も増えた。若い人が家から独立してひとり暮らしをするのはいいが、中高年にも離婚、離別、死別などさまざまな理由からひとり暮らしになってしまう人が増えている。
 ひとり暮らしでなくても、夫婦ふたりきりとか、子どもがひとりの3人家族、子どもがふたりいるけれど離婚したので3人の母子家庭、あるいは母子ふたりだけの家庭などなど、家庭という「場」が限りなく「点」に近くなってしまった。
 また、経済効率や競争などの経済原理が家庭にまで持ちこまれ、たとえば子どもはこれからいい学校に行って、いい会社に就職し、「お金を稼げる人」になることを第一の目標に設定されている。また、逆に、引退し仕事の収入がなくなったお年寄りは、お荷物扱いにされる。金銭的な意味での生産性がない人は、社会ばかりでなく家庭においても居場所がなくなる。
 私はめったに行かないが、たまにマクドナルドなどに行ってみると、一杯100円のコーヒーで時間をつぶしているお年寄りがいる。
 地域社会というものも崩壊の危機に瀕している。町内の行事や奉仕作業、お祭り、運動会、そういったものには生産性がなく、時間を取られるばかりで、人間関係もめんどくさい。そういった理由で地域のコミュニティに積極的に関わろうという人はいなくなってしまった。
 学校も教育サービスの場と化し、競争と効率という価値観が持ちこまれ、子どもたちは心休まる暇もない。
 人々はどこで心休め、だれかと共感しあえるというのだろう。

 上記のようなことは社会の大きな流れなので、無理に押しとどめることは難しいと考えている。しかし、人は自分を伝え、理解してくれる相手がいなければ生きていくことはできない。相互理解の友人や知り合いがいない人は精神を病むしかない。
 人はかならず相互理解の場を求める。そして、家庭や学校や地域社会にはない、あたらしい形のコミュニティがあちこちで生まれはじめている。
 そのひとつに現代朗読協会がなればいいと、私はずっと思っていたのだ。菊地裕貴のなにげないひとことは、私のその望みに光を照らしてくれるものだ。現代朗読協会には彼女の言葉どおり、さまざまな年齢層の人が参加している。子どもを連れてくる人もいるし、正会員としては10代から70代までほぼまんべんなくいる。
 それらのすべての人が、現代朗読協会では表現者である。また表現の受容者でもある。お互いに表現しあい、共感しあう。
 また、現代朗読協会は「学びの場」である。すべての参加者がよりよい表現者になろうと学びつづけている。学びつづけるというのは、つまり自分のまわりに目を向け、あらゆることを受け入れ、考えつづけるということだ。
 人は生まれつき、自己利益を追求するようにできている。つまり、自分の幸せを求めて生きている。自分の幸せとは、自分のまわりや社会そのものに幸せがなければ本当の意味で実現できないのだと気づき、公共利益についても考えるようになったとき、人は社会性を持った本当の意味での「人」となる。コミュニティはその社会の最小単位である。
 現代朗読協会が本当にすばらしい、奇跡のような場所になりつつあると、私はいまいる皆さんに感謝している。この場を存続させるために私にできることがあれば、なんでも惜しまずにやろうと思う。