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2009年8月27日木曜日

いま読んでいる本:武満徹著作集5

 この著作集は全5巻で構成されている。
 私の愛読書だが、とくにこの第5巻は何度も読み返している。そのたびにあらたな発見がある。
 いまは、対論集のところを読み返している。その最初のジョン・ケージとの対談がとくに好きだ。
 印象的な言葉がたくさん詰まっている。武満徹が、

 「近代」というものに対する様々な反省。非常に機能的な、人間に便利なものを作り出そうという営為の中で、私たちはたくさんの余分なもの、不都合なものを切り捨ててきてしまった。その結果として、たくさんの困難に直面するはめになっている。

 と述べる。そしてどうしてもペシミスティックになってしまう、オプティミストになりたいのに、というのに対して、ジョン・ケージは、

  問題は、いまオプティミストだと、ちょっとバカみたいな感じがしてしまうことなんですよ。
  その楽天的なものの考え方をするために、何か基盤になるものがないんだったら、私たちがそれをつくり出さなければなりません。

 と芸術の役割を提案する。
 それを受けて武満は、

  これからは、いろんな人々がやっぱり芸術家である方がいいと思う。すべての人々がクリエイティヴで。そういう時代が来るまでの、ひとつのかりそめの橋渡しの役を僕らが担うことができれば。

 という希望を語る。
 ケージも自分の希望を語る。

  多くの人たちを、誰にも雇われていない状態へ引きずりこんでいくことが大切。ところが、今の時代だと「失業」という言葉になってしまう。が、過去の素晴らしい発見は雇われていない人たちから出てきているみたい。雇われている人たちというのは、上から言われたことしかしない傾向がある。

 ふたりとももうこの世にはいない。
 しかし、彼らに学ぶべきことはたくさんある。

『武満徹著作集5』武満徹/新潮社

2009年8月26日水曜日

眼医者に行く

 実家から歩いて1分(つまり道路を渡ったところ)にある眼医者に行く。
 まず、視力検査。
 右1.5、左0.9と、なんの問題もない。
 診察を受けたが、これも問題なし。見えにくくなっているのは、老眼が進んでいるせいらしい。とくに暗いところでは老眼は見えにくい。そして、私のようにいつも遠くまでくっきり見えている者は、とくに老眼を感じやすいのだそうだ。
 目がいい人は老眼が早く進む、という迷信があるけれど、これは物理的に早く進むのではなく、普段遠くがよく見えている反動で老眼の進み具合を早く感じやすい、ということだろう。こればかりはしかたがない。
 歳をとっても全然老眼鏡などいらない人がいるけれど、世の中すべて公平とは限らない。

 老眼が進んで、まんざら悪いことばかり起こるようになったわけではない。
 老眼が進むと、まず、近いところの細かいものが見えにくくなる。活字であり、楽譜である。読まなければならないときには老眼鏡をかけるわけだが、老眼鏡が手元にないときにはなんとか「なし」ですまそうとする。つまり、視覚情報に頼らないようにしようとする。
 たとえば、今度の名古屋の「Kenji」公演。
 私はピアノ演奏のために、ステージ中央に置かれてピアノに向かって座っている。
 ステージ上は、照明があるとはいえ、基本的に暗い。というより、明るくなったり暗くなったりする。場面によっては「完全暗転」もある。暗転すれば、当然、なにも見えない。楽譜にせよ、台本にせよ、読むことはできない。なので、結局は「覚える」しかないのである。
 楽譜とか台本を全部覚えて、視覚に頼らないで演奏をする。人の動きは音や気配で感じとる。これがいろいろなことを活性化する。
 視覚に頼っているあいだは、「見えているものしか見えない」というあたりまえの状況なわけだが、視覚に頼らずに感覚をとぎすませていると、「見えていないものも見えてくる」という状況が出現する。これは嘘ではなく本当に起こることなのだ。観客の顔すら見えてくるような感覚になる。
 老眼が進むのは悪いことばかりではない。そのうち、目を閉じていても活字を読めるようになるかもしれない(これはもちろん冗談)。

2009年8月25日火曜日

いま読んでいる本:エリック・サティ

 サティは西洋音楽史上、大変重要な人物であるとされながら、ほぼ同時代の作曲家であるドビュッシーやラヴェルと比べると、ずっと知名度は低かった。私も学校の音楽の授業でサティの名前や曲を聴いた覚えはほとんどない。
 サティの名前を知ったのは、はるかに成人し、音楽の仕事に関わるようになってからだと思う。私の個人的印象だが、サティという作曲家が評価され、曲がこれだけ聴けるようになったのは、割合最近のことではないか。
 ともあれ、サティの曲は一度聴いたら二度と忘れられない。

 はっきりいって読みにくい本だが、サティについていくつか印象的な記述がある。
「エリック・サティは超越的理想主義者で(中略)理想主義は大衆には理解されない。どんなに多くの人間が、ただ世俗的な財産を築いたり己れの虚栄心を満足させたいがために、芸術に勤しんでいることか! それは逆に、飽食して無思想に生きるよりは、貧しくても自分の思想に忠実に生きることを選んだ」
 サティは生涯独身であり、貧窮の人であった。
 スチュアート・ミルは、
「生活の足しになる文章は生きる足しにはならない」
 と書いている。
 サティが孤独を選んだのは、芸術を理解しない大衆に絶望したからであろうか。

『エリック・サティ』アンヌ・レエ/村松潔・訳/白水Uブックス

榊原忠美氏のブログ

 今朝は気温が21度だと、ラジオでいっていた。北陸の山あいの町。
 くっきりと秋。空は晴れあがっている。日中、気温はあがるけれど、風ははっきりと秋の風。短い夏だった。

 夏の終わり、というより、秋の始めになってしまったウェルバ・アクトゥス第一回名古屋公演「Kanji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」の主演といってもいい俳優の榊原忠美氏のブログが、ひさしぶりに更新されていたので紹介。
 榊原氏は名古屋の劇団クセックACTの中心俳優だが、個人的にジャン・ジオノの『木を植えた人』の朗読会を全国展開している。
 その公式サイトはこちら
 これまでになんと256回の公演をおこなってきている。ひとことで256回というけれど、これは驚異的な数字である。だれにもできないだろう。私にもできない。森光子がどうのこうの、という人がいるかもしれないが、あちらは商業公演なのである。やる場所も時間も決まっているし、巨額のお金と人が動いている。全然比較にならない。

 そんな超人的な榊原氏のブログ「木を植えた人のひとりごと」はこちら
(photo by Funky Yoshi)

世界の音とつながってみる

 東京から北陸の田舎に移動。
 実家は人口2万人くらいの田舎町の街なかにある。回りは家が建てこんでいるが、半分くらいは空家である。他聞に漏れず、産業の地盤沈下と人口流出が激しい。他聞に漏れず、無能な行政が高水準の給料をもらって、居座っている。お役人ではない商家や農家は、その半分以下の収入で、土地にへばりつくようにして暮らしている。土地がなければ生きていることすらできないだろうが、そのなけなしの土地にも不動産税がかけられて搾取される。搾取されているのは人だけでなく、その土地そのもの、伝統風土そのものだということに、国は気づかなければならない。

 こんなことを書きたいのではなかった。つい筆(キーポード)がすべった。
 回りには家が建てこんでいるが、人は少ないので、生活音はあまりない。ときおり道路を車が通りすぎる音が聞こえる程度だが、その頻度は低い。
 セミの声がかすかに聞こえる。もう秋なので勢いはまったくない。東京のほうが賑やかだ。
 選挙カーが遠くからやってきて、家の近くを通りすぎて、また遠ざかっていく。共産党の選挙カーだ。聞き覚えのある声だと思ったら、同級生の山田くんの声だった。
 音楽はない。どうやら最近、私は音楽がなくても不都合は感じなくなっている。音楽がなくても、さまざまな音を楽しめるようになってきたせいか。そして、朗読にたずさわる時間が増え、人の声に接している時間が増えたせいか。

 数日前の「朗読はライブだ!」ワークショップでの話。参加者のレイラさんの気づき報告。
 かつて彼女は、常に携帯音楽プレーヤーを持ちあるき、耳にはイヤホンを挿していた。音楽を聞いていなければ歩けなかった。音楽を聞けば、どんなに疲れていてもいくらでも歩けるような気がしていたという。
 ところが、最近、音楽にあるかされている自分に気づいた(ここが気づき報告)。そして、最近は携帯プレーヤーを忘れても平気なようになってきた。かつては忘れたらあわてて取りに戻ったりしていたのだが。
 音楽を直接耳に入れていなくても、まわりのさまざまな音を聴きながら自分のペースで歩けるようになってきた、という報告だった。

 私たちのまわりにはいろいろな音がある。
 音楽だけでなく、いろいろな音に気づいてみよう。多彩な音に感受性を開いてみよう。すると、聴覚だけでなく、いろいろな感覚が目覚め、立ちあがってくるだろう。
 音楽もいいけれど、そこに閉じこめられてしまうのではなく、ときに音楽から開放されて世界の音とつながってみよう。

2009年8月21日金曜日

「プロ」と「アマ」という区分


 これは最近に限ったことではないが、よくいわれることに、
「私はプロなので、アマチュアとおなじステージに立ちたくない」
 というセリフがある。
 あるいは、現代朗読協会にやってくる人で、
「お稽古ごととして朗読をやるつもりはないんです。プロになりたいんです」
 という方がいる。
 心意気はすばらしいが、では「あなたが考えるプロの定義は?」と訊くと、ちょっと口ごもり、まことにお粗末な答えしか返ってこないことがほとんどだ。
 彼女らがいう「プロの定義」とは、「それで生活していけるだけの収入を得ている人」だそうだ。
 では、と私は聞き返す。
 次の人のうち、どちらがブロ?

・それで収入を得ているけれど、仕事をしていないときは仕事のことをさっぱりと忘れて遊び暮らしている人。
・それで収入を得てはいないけれど、毎日その仕事のことばかり考えていて、生活もその仕事が中心に回っている人。

 どちらも実際にいるし、私は多くの実例を見てきている。
 たとえば、有名声優で、大企業のコマーシャル用サウンドロゴ一声を吹きこむだけでン百万も報酬をもらえるような人が、日頃はなんらトレーニングひとつせず、飲み歩いてばかりいる人。
 たとえばストレッチを一日でもさぼるダンサーがいるだろうか。たとえばスケール練習を一日でもさぼるピアニストがいるだろうか。もしいるとすれば、私はその人をアマチュアと呼ぶ。なぜなら、彼らは生活のために仕事をしているかもしれないが、仕事のために生活をしていないからだ。
 もし私が「プロ」という言葉を定義するとすれば、生活のために仕事をしている人ではなく、
「仕事を成立させるために生活している人」
 とする。

 朗読の場合、それだけで生活するのは至難の業だ。が、朗読を自分のライフワークであり、また表現することが自分の生きることそのものだと考えている人がいる。彼は自分が朗読を続けるために、毎日の生活を整え、トレーニングをおこたらず、また朗読生活を支えるためにはときにアルバイトをしているかもしれず、また別に仕事を持っているかもしれない。
 そういう人は山ほどいる。
 彼は、生きるということは朗読そのものであり、朗読を中心に生活が組み立てられている。朗読というと特殊なように感じるかもしれないが、「朗読」を「音楽」とか「アート」とか「マラソン」とか、なにかポピュラーなものに置きかえてみると、そう特殊な考えではないことがおわかりのはずだ。
 そもそも、「プロ」「アマ」という区分を作るのは、もうやめませんか?

2009年8月13日木曜日

【YouTube】ロードクセッション「君はまた恋に堕落している」

2009年7月31日に立川のライブハウス〈CRAZY JAM〉にておこなわれたロードクセッションからの抜粋です。
水城雄のオリジナルテキストを、野々宮卯妙がロードク、ピアノの即興演奏はMIZUKI。ロードクとピアノによるデュオセッションです。

映像はこちら

2009年8月6日木曜日

気になる:そら庵と渡さん

あまり朗読関係で興味をそそられるものは(現代朗読以外には)めったにないのだが、最近、気になる場所がある。
私もそのmixiコミュニティに参加しているが、江東区にある〈そら庵〉というスペースだ。
なにやらいつもおもしろそうなことをやっていて、しかもその内容がときおりげろきょとかぶるような時がある。まだ一度も行ったことはないのだが、いずれは行ってみたいと手ぐすね引いているところだ。
が、8月中は名古屋の公演の大詰めということもあって、なかなか行く機会はなさそうだ。残念。

この〈そら庵〉のことを教えてくれたのは、詩人の渡ひろこさんで、彼女はよく行くらしい。また、彼女もまたそこで読んだりしているらしい。
こちらも残念ながらまだ実際に見聞きしたことはない。
彼女のmixi日記に、おもしろいパフォーマンスが紹介されていた。
さかいさんという方の朗読パフォーマンスで、なにやらやっていることがげろきょとカブっている。
おもしろいのだ、これが。一度、ご覧あれ。
この映像を紹介した渡ひろこさんの日記にコメントしたところ、げろきょの映像にもいろいろとコメントをいただいたので、紹介しておきたい。

「温室」は朗読者それぞれの方の言葉と個性が
キャッチボールのように表現されていて、躍動感がいいですね。

「Dancin' On The Door」。これはもうラジオドラマか、一人芝居のようで、朗読されている方は役者さんをされていたのではないでしょうか?素晴らしく上手でプロの方のように思えました。

「メニュー」もその意外性が面白かったのと、即興で朗読できるというのは、やはり実力と普段から鍛錬されているのだな~と感心しました。

「麺類紀行」はウイットに富んだテキストを朗読の方がさらに盛り上げて表現されている感じがしました。

「ジョルダンの曲線定理」。これはある側面から見るとまさしく音楽という感じがします。無機質な数学の定理がピアノとカホーンに溶け込んで、音になっているという新しい試みで面白かったです。
数学者が読むというのが、またいいです(笑)
クールでシュール!

以上です。
渡ひろこさん、ありがとうございました!