げろきょがお世話になっている世田谷文化財団・生活工房の方からお知らせが届いたので、こちらでもご案内しておきます。
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今回は、突然で恐縮ですが
12月3日(土)に北沢タウンホールで実施する
「電気自動車でご飯を炊こう!」のご案内です。
生活工房ではこれまでも中学生を対象とした電気自動車組立教室を毎年開催してまいりました。
昨今、街には電気自動車が走りだしましたが
そのバッテリーに蓄電された電力は、
家庭内でも有効に活用することが可能です。
今回のイベントでは、
エネルギー問題に直面し、節電が叫ばれる今、
電気自動車と私たちの暮らしについて考えます。
当日は舞台上で、日本EVクラブさん製作による電気自動車を組み立てながら、講師が解説いたします。
直近のご案内で恐縮ではございますが、
ご興味ございましたら是非ご参加ください。
参加無料のイベントですので、ご家族、ご友人などにもお声掛け頂けると幸いです。
詳細は以下の通りです。
―――――――
◎開催日時
12月3日(土)14時〜16時30分
◎場所
北沢タウンホール
◎内容
・電気自動車の組み立て実演・解説
・(対談)日本EVクラブ代表 舘内端氏×JAF MATE編集長 鳥塚俊洋氏
◎申込
こちらのメールにご返信下さい。(参加無料です)
◎ホームページ
水城ゆうブログ
公式ウェブサイトはこちら ⇒ http://mizuki-u.com
記事へのコメント・メッセージはSNSにどうぞ。
Twitter ⇒ https://twitter.com/YuuMizuki
Facebook ⇒ https://www.facebook.com/YuuMizuki
2011年11月30日水曜日
2011年11月29日火曜日
明日はアレクサンダー・テクニーク講座
不定期に突発的におこなっているげろきょのアレクサンダー・テクニーク講座。私の友人のケンちゃんが講師をやってくれています。
明日30日の夜もあります。19時から。参加者が少ないので、興味がある方はぜひ。
思えばこのケンちゃんのアレクサンダーからいまのげろきょのすべてが始まったような気がします。
ケンちゃんは歌手の伊藤さやかが連れてきてくれたのです。伊藤さやかはオーディオブックリーダーの春日玲が連れてきました。
最初はまだアレクサンダー・テクニークの公認インストラクターの資格を取りたてで、げろきょで定期的に講座を開いてくれてました。
毎回の講座が終わってから、なんとなくお菓子を囲んでゆるいお茶会をやっていたんですが、数年前にケンちゃんは自分が受けているNVC(非暴力コミュニケーション)のトレーニングプログラムのことを紹介してくれるようになったのです。
それが非常におもしろい内容で、私は大きな影響を受けました。とくに表現分野にNVCの考え方を適用できないかと考え、そして実行しました。その結果、げろきょが大きく変わっていき、いまのような大変おもしろい集団になってきたのです。
ケン先生、さまさまです。
そのケン先生が明日もアレクサンダー・テクニーク講座をやってくれます。
アレクサンダーってなんだ、という人は、ぜひぐぐってみてください。そして興味がわいたら実際に受けてみることをおすすめします。
一回や二回ではなかなかわからないかもしれません。しかし、日常生活や表現活動において非常に有用なものであることは、私が保証します。
ケン先生のアレクサンダー・テクニーク講座の詳細は、こちら。
明日30日の夜もあります。19時から。参加者が少ないので、興味がある方はぜひ。
思えばこのケンちゃんのアレクサンダーからいまのげろきょのすべてが始まったような気がします。
ケンちゃんは歌手の伊藤さやかが連れてきてくれたのです。伊藤さやかはオーディオブックリーダーの春日玲が連れてきました。
最初はまだアレクサンダー・テクニークの公認インストラクターの資格を取りたてで、げろきょで定期的に講座を開いてくれてました。
毎回の講座が終わってから、なんとなくお菓子を囲んでゆるいお茶会をやっていたんですが、数年前にケンちゃんは自分が受けているNVC(非暴力コミュニケーション)のトレーニングプログラムのことを紹介してくれるようになったのです。
それが非常におもしろい内容で、私は大きな影響を受けました。とくに表現分野にNVCの考え方を適用できないかと考え、そして実行しました。その結果、げろきょが大きく変わっていき、いまのような大変おもしろい集団になってきたのです。
ケン先生、さまさまです。
そのケン先生が明日もアレクサンダー・テクニーク講座をやってくれます。
アレクサンダーってなんだ、という人は、ぜひぐぐってみてください。そして興味がわいたら実際に受けてみることをおすすめします。
一回や二回ではなかなかわからないかもしれません。しかし、日常生活や表現活動において非常に有用なものであることは、私が保証します。
ケン先生のアレクサンダー・テクニーク講座の詳細は、こちら。
朗読会「槐多朗読」レポート
2011年11月28日夜。明大前キッド・アイラック・ホール地下のブックカフェ〈槐多〉で、朗読会「槐多朗読」がおこなわれました。
ここはホールのオーナーのこだわりの蔵書が興味深いブックカフェで、天井が高く、村山槐多の絵も飾られていて、とてもおもしろい空間です。
客席は20席。カウンター席とテーブル席があります。そのうち2席を私が演奏機材のためにつぶしたので、定員18名。
1か月くらい前に告知を始めたときは、お客さんが全然集まらずどうなることかと心配だったんですが、最終的には満席となりました。それどころか、予約をいただいてなかった人が3名くらいいらして、臨時の椅子を出したりしてかなりぎゅうぎゅうな感じのなかでライブがスタートしました。
参加費がワンドリンク付きという設定だったので、ドリンクサービスが開始時間までに間に合わず、半分くらいの方はドリンクなしでスタートすることになりました。なので、中間のトークのときに、たっぷり時間をとって、全員にドリンクが行き渡るのを待ちました。しゃべることがなくなって困ったけれど。
次にやるときは、ドリンクサービスの時間を入れこんだプログラムを作っておくといいかもしれません。
前半は村山槐多の童話というか、奇妙な短編5連作を集めた「五つの童話」というテキスト。
朗読の野々宮卯妙は入口の正反対の一番奥の本棚前に陣取ってます。私は入口脇の、カウンターの一番手前の部分にキーボードを置いて立ってます。
ピアノがないので、楽器は持ちこみました。いつものKORGの61鍵のシンセと、MacBookAir、ミキサー、そしてBOSSのモバイルスピーカー。ひとりで持っていくにはけっこうな荷物です。これを羽根木から明大前までえっちらおっちら歩いて運んだのはかなりきつかったんですが、それよりきつかったのは、入り時間が開演40分前というあまり余裕がない時間になってしまったことです。
行ったらいつもの早川さんが不在で、初対面の海野さんが対応してくれました。コンセントはどこだ、スピーカーはどこに置いたらいい? キーボードはカウンターの上に置いてもいい? ならんでいた瓶類を片付けてもらったり、使わないケースや鞄を片付けたりしていたら、もうお客さんが来てしまいました。開演まで30分を切っていました。
初めての場所では音響がわからないのと、ピアノではなく電子楽器オンリーだったので、じっくりと音出しをしたかったんですが、それもままならず、お客さんもどんどん入ってきて、あっという間に開演時間をすぎてしまいました。
心の余裕がまったくないまま、スタート。私にはとても珍しいことです。自分のニーズを大切にしないとこういう目にあいます。それはお客さんに対しても申し訳ないことです。
が、野々宮はいつものように軽快に読みはじめたので、私は半分も集中できていなかったんですが、お客さんは朗読に集中してくれているようでした。
もうひとつ、私には集中できない原因がありました。
それは〈槐多〉のダクトの音でした。空調も換気扇も切ってもらったんですが、ホール全体の空調の音がダクトからどうしても聞こえてきて、それがかなり気になったのです。後半は「沈黙の朗読」のシリーズとして構成したテキストでしたが、静穏な環境とはいえなかったことが気になりました。
とはいえ、こういう環境的な制約はよくあることです。そもそもピアノがないということも、私には大きな制約です。こういった逆風にどのように対処していくのか、今後の課題ですね。
後半は「沈黙の朗読」シリーズのひとつと自分では考えている「金色と紫色との循環せる眼」という、槐多のテキストを構成し、私のオリジナルテキストも混ぜた作品です。
後半はだいぶ私も集中できるようになってきていて、しかし音響感覚はまったく不安で、ダクトの音も気になって完全な集中というわけにはいかなかったんですが、最後はお客さんとなにかを共有できた感覚がありました。
おいでいただいた皆さんには心から感謝します。
「沈黙の朗読」の後はいつもそうなるんですが、なんだか呆然としてだれも言葉も出ないような、脳みその言語領域ではなくもっと深いところ、身体につながっているところでなにかがうごめいているような感覚になったんじゃないかと思います。
しかし、何分後かには皆さんも言語領域にもどってきて、楽しいおしゃべり。
開演時には戻ってきた早川さんも「よかった」といってくれ、たちまち第2回の「槐多朗読」が決まりました。
2012年2月20日、なんと村山槐多の命日だというその日にやります。今回のようなことがありますので、みなさん、どうぞ予約はお早めにお願いします。18名限定です。
次回は私も余裕をもって準備して、マインドフルに臨みたいと思います。どうぞお楽しみに。
ここはホールのオーナーのこだわりの蔵書が興味深いブックカフェで、天井が高く、村山槐多の絵も飾られていて、とてもおもしろい空間です。
客席は20席。カウンター席とテーブル席があります。そのうち2席を私が演奏機材のためにつぶしたので、定員18名。
1か月くらい前に告知を始めたときは、お客さんが全然集まらずどうなることかと心配だったんですが、最終的には満席となりました。それどころか、予約をいただいてなかった人が3名くらいいらして、臨時の椅子を出したりしてかなりぎゅうぎゅうな感じのなかでライブがスタートしました。
参加費がワンドリンク付きという設定だったので、ドリンクサービスが開始時間までに間に合わず、半分くらいの方はドリンクなしでスタートすることになりました。なので、中間のトークのときに、たっぷり時間をとって、全員にドリンクが行き渡るのを待ちました。しゃべることがなくなって困ったけれど。
次にやるときは、ドリンクサービスの時間を入れこんだプログラムを作っておくといいかもしれません。
前半は村山槐多の童話というか、奇妙な短編5連作を集めた「五つの童話」というテキスト。
朗読の野々宮卯妙は入口の正反対の一番奥の本棚前に陣取ってます。私は入口脇の、カウンターの一番手前の部分にキーボードを置いて立ってます。
ピアノがないので、楽器は持ちこみました。いつものKORGの61鍵のシンセと、MacBookAir、ミキサー、そしてBOSSのモバイルスピーカー。ひとりで持っていくにはけっこうな荷物です。これを羽根木から明大前までえっちらおっちら歩いて運んだのはかなりきつかったんですが、それよりきつかったのは、入り時間が開演40分前というあまり余裕がない時間になってしまったことです。
行ったらいつもの早川さんが不在で、初対面の海野さんが対応してくれました。コンセントはどこだ、スピーカーはどこに置いたらいい? キーボードはカウンターの上に置いてもいい? ならんでいた瓶類を片付けてもらったり、使わないケースや鞄を片付けたりしていたら、もうお客さんが来てしまいました。開演まで30分を切っていました。
初めての場所では音響がわからないのと、ピアノではなく電子楽器オンリーだったので、じっくりと音出しをしたかったんですが、それもままならず、お客さんもどんどん入ってきて、あっという間に開演時間をすぎてしまいました。
心の余裕がまったくないまま、スタート。私にはとても珍しいことです。自分のニーズを大切にしないとこういう目にあいます。それはお客さんに対しても申し訳ないことです。
が、野々宮はいつものように軽快に読みはじめたので、私は半分も集中できていなかったんですが、お客さんは朗読に集中してくれているようでした。
もうひとつ、私には集中できない原因がありました。
それは〈槐多〉のダクトの音でした。空調も換気扇も切ってもらったんですが、ホール全体の空調の音がダクトからどうしても聞こえてきて、それがかなり気になったのです。後半は「沈黙の朗読」のシリーズとして構成したテキストでしたが、静穏な環境とはいえなかったことが気になりました。
とはいえ、こういう環境的な制約はよくあることです。そもそもピアノがないということも、私には大きな制約です。こういった逆風にどのように対処していくのか、今後の課題ですね。
後半は「沈黙の朗読」シリーズのひとつと自分では考えている「金色と紫色との循環せる眼」という、槐多のテキストを構成し、私のオリジナルテキストも混ぜた作品です。
後半はだいぶ私も集中できるようになってきていて、しかし音響感覚はまったく不安で、ダクトの音も気になって完全な集中というわけにはいかなかったんですが、最後はお客さんとなにかを共有できた感覚がありました。
おいでいただいた皆さんには心から感謝します。
「沈黙の朗読」の後はいつもそうなるんですが、なんだか呆然としてだれも言葉も出ないような、脳みその言語領域ではなくもっと深いところ、身体につながっているところでなにかがうごめいているような感覚になったんじゃないかと思います。
しかし、何分後かには皆さんも言語領域にもどってきて、楽しいおしゃべり。
開演時には戻ってきた早川さんも「よかった」といってくれ、たちまち第2回の「槐多朗読」が決まりました。
2012年2月20日、なんと村山槐多の命日だというその日にやります。今回のようなことがありますので、みなさん、どうぞ予約はお早めにお願いします。18名限定です。
次回は私も余裕をもって準備して、マインドフルに臨みたいと思います。どうぞお楽しみに。
予測不能のライブワークショップ第8期スタート
「朗読はライブだ!」というワークショップを開催しています。全6回のワークショップを通じてライブ発表のための準備をして、最終回にちゃんとお客さんを呼んでライブをやってしまおう、というものです。今週末の土曜日から、その第9期がスタートします。
ということは、これまで8期やってきたということになります。つまり、ライブワークショップのライブをこれまで8回おこなった、ということです。
振り返ればどれも思い出深いライブばかりです。
参加者はライブ未経験の人が多いのです。それどころか、朗読そのものも初体験という人もたくさんいます。そういった人たちが現代朗読を学び、たった6回のワークショップでライブ発表をする。毎回、驚くようなことが起きます。
なにが起こるかは私にも予測できません。でも、いつもなにか感動的なことが起こります。
現代朗読では、なにか立派なものを作り上げたり、たくらんだり、準備したり、といったことはしません。ワークショップで学んでもらうのは、私たちが無意識に身につけてしまっている癖とか習慣とか、あるいは固定化された思考パターンを「やめていく」ことです。私たちが私たち自身に立ちもどり、ひと前でなにかを表現するとき、予測できないおもしろいことが発表する者と観客の間に起こるのです。
ということは、これまで8期やってきたということになります。つまり、ライブワークショップのライブをこれまで8回おこなった、ということです。
振り返ればどれも思い出深いライブばかりです。
参加者はライブ未経験の人が多いのです。それどころか、朗読そのものも初体験という人もたくさんいます。そういった人たちが現代朗読を学び、たった6回のワークショップでライブ発表をする。毎回、驚くようなことが起きます。
なにが起こるかは私にも予測できません。でも、いつもなにか感動的なことが起こります。
現代朗読では、なにか立派なものを作り上げたり、たくらんだり、準備したり、といったことはしません。ワークショップで学んでもらうのは、私たちが無意識に身につけてしまっている癖とか習慣とか、あるいは固定化された思考パターンを「やめていく」ことです。私たちが私たち自身に立ちもどり、ひと前でなにかを表現するとき、予測できないおもしろいことが発表する者と観客の間に起こるのです。
2011年11月28日月曜日
ボイスセラピスト講座の半分はコミュニケーション法
初めての2級ボイスセラピスト講座が終わりました。大変楽しくやらせていただきました。今回の講座で6名の2級ボイスセラピストが誕生しました。
ボイスセラピストは、呼吸と声を使って心身の不調を整えていく技術を知っている人のことです。だれかに施術することもできますし、なにより自分自身を調整できます。
講座でもお互いに施術の練習をしあううちに、どんどんリフレッシュしていくようでした。内容は理論面など難しいこともあるまじめな講座だったんですが、なぜか笑い声のたえない楽しい時間でした。
というのは、このボイスセラピスト講座にはもうひとつ特徴があって、コミュニケーション法を身につけてもらうことが重要だからです。セラピストは自分の技術を使って人に「なにかをやってあげる」という意識を持つことはしません。すくなくとも私はそう思っています。相手から「こうしたい」という自主的な気持ちを引きだすために、まずは純真に相手の問題と向き合う好奇心と観察力が必要になります。
NVCの手法も取りいれたセラピストのためのコミュニケーション法が、この講座の半分のウェイトを占めていたのでした。みなさんも私も、最後はとても希望に満ちた気持ちで終わることができました。
次回2級ボイスセラピスト講座は、1月15日の予定です。
ボイスセラピストは、呼吸と声を使って心身の不調を整えていく技術を知っている人のことです。だれかに施術することもできますし、なにより自分自身を調整できます。
講座でもお互いに施術の練習をしあううちに、どんどんリフレッシュしていくようでした。内容は理論面など難しいこともあるまじめな講座だったんですが、なぜか笑い声のたえない楽しい時間でした。
というのは、このボイスセラピスト講座にはもうひとつ特徴があって、コミュニケーション法を身につけてもらうことが重要だからです。セラピストは自分の技術を使って人に「なにかをやってあげる」という意識を持つことはしません。すくなくとも私はそう思っています。相手から「こうしたい」という自主的な気持ちを引きだすために、まずは純真に相手の問題と向き合う好奇心と観察力が必要になります。
NVCの手法も取りいれたセラピストのためのコミュニケーション法が、この講座の半分のウェイトを占めていたのでした。みなさんも私も、最後はとても希望に満ちた気持ちで終わることができました。
次回2級ボイスセラピスト講座は、1月15日の予定です。
2011年11月27日日曜日
2級ボイスセラピスト講座、終了
今日は朝から「2級ボイスセラピスト講座」でした。
これが初めての開催で、内容や教材について実践で確認したいというのもあって、あまり大々的に対外的には告知しませんでした。しかし、げろきょのゼミ生たちが6名付き合ってくれて、大変充実した内容で進めることができました。
そして、ゼミ生たちが相手ということもあったのかもしれませんが、大変楽しかったのです。
私としては、ボイスセラピー(音読ケア/音読療法)についての長年の考えや、これを普及するための講座内容についてしっかりと確認させてもらったのと、セラピストにとって重要なクライアントとのコミュニケーションにおいて応用できるNVCの方法を伝えながら実践できた、ということが大変大きな収穫でした。
NVCについては、ホルヘとの一週間の一連のセッションが私に眼を開かせてくれて、これまでいまいちフィットしなかったNVCの語法がしっくりと自分のなかにはいってきた感じがしています。自分の言葉と自分のフィーリングで、違和感なくNVCの言語を使えることに近づいたような気がします。まだまだ練習は必要だとは思いますが。
ボイスセラピストにも、このような共感的言語を使ってもらえたらいいなあと思います。
いずれにしても、今日の講座では、参加者全員がさまざまな発見があったようで、なによりまず自分自身を癒すことからスタートしたいということで、共通の認識があったようです。そして、それぞれがとても深いクオリティのつながりを持てたことも、私にはうれしかったです。
笑いあり、涙ありの今日の講座、もう一度いいますが、とても楽しかったのです。
げろきょのゼミ生の多くがボイスセラピストになってくれたらいいなあ、なんて思いました。
年が明けたら、第2回の2級ボイスセラピスト講座、そして第1回の1級ボイスセラピスト講座を開催する予定です。
とりあえず、2回めの2級ボイスセラピスト講座は、1月22日(日)の開催です。
これが初めての開催で、内容や教材について実践で確認したいというのもあって、あまり大々的に対外的には告知しませんでした。しかし、げろきょのゼミ生たちが6名付き合ってくれて、大変充実した内容で進めることができました。
そして、ゼミ生たちが相手ということもあったのかもしれませんが、大変楽しかったのです。
私としては、ボイスセラピー(音読ケア/音読療法)についての長年の考えや、これを普及するための講座内容についてしっかりと確認させてもらったのと、セラピストにとって重要なクライアントとのコミュニケーションにおいて応用できるNVCの方法を伝えながら実践できた、ということが大変大きな収穫でした。
NVCについては、ホルヘとの一週間の一連のセッションが私に眼を開かせてくれて、これまでいまいちフィットしなかったNVCの語法がしっくりと自分のなかにはいってきた感じがしています。自分の言葉と自分のフィーリングで、違和感なくNVCの言語を使えることに近づいたような気がします。まだまだ練習は必要だとは思いますが。
ボイスセラピストにも、このような共感的言語を使ってもらえたらいいなあと思います。
いずれにしても、今日の講座では、参加者全員がさまざまな発見があったようで、なによりまず自分自身を癒すことからスタートしたいということで、共通の認識があったようです。そして、それぞれがとても深いクオリティのつながりを持てたことも、私にはうれしかったです。
笑いあり、涙ありの今日の講座、もう一度いいますが、とても楽しかったのです。
げろきょのゼミ生の多くがボイスセラピストになってくれたらいいなあ、なんて思いました。
年が明けたら、第2回の2級ボイスセラピスト講座、そして第1回の1級ボイスセラピスト講座を開催する予定です。
とりあえず、2回めの2級ボイスセラピスト講座は、1月22日(日)の開催です。
北陸の実家、小牧、東京、朗読ゼミ、テキストゼミ
NVC国際公認トレーナー、ホルヘ・ルビオによるワークショップの翌日、私は北陸の実家に帰省しました。
東京は晴れていい天気だったのに、小松は強風と雷光の荒れた天気。左右にあおられながら不安定な着陸で、ひさしぶりに肝を冷やしました。ま、無事でしたが。これからの北陸の冬は、雪による運行中止や荒天など、予定どおりにはいかないことが起きそうで、覚悟が必要です。
実家では冬支度をいくらかやって(雪囲いの修理とか枝を払った後始末とか)、翌日は電車で移動。名古屋経由、小牧へ。
こまきみらい塾の現代朗読講座4回めでした。
これまでこの講座では、40名の参加者という大人数に対応するため、グループワークがほとんどだったのですが、今回はなるべくひとりひとりとコミュニケートしたいと思って、ひとりずつ順番に話してもらうことにしました。質問、感想、参加した理由など、さまざまな声をひとりずつ丁寧に聞かせてもらい、それに応えていくことで、これまでとはまた質の異なるつながりの深い講座になったような気がします。とても充実した、楽しい時間でした。
名古屋に戻って、投宿。
翌日は東京戻り。午後は朗読ゼミ。
参加者が少なかったので、羽根木の家の掘りごたつでまったりと。とはいっても、7人くらいはひとつのこたつに足を突っ込んで、肩を寄せ合っていたわけですが。それが理由かもしれませんが、とても親密で共感的な話と朗読の聞き合いができて、暖かい気分になりました。
夜はテキスト表現ゼミ。
こちらもまたもや、掘りごたつゼミ。参加者が昼より多くなったので、さらに窮屈で親密になりました。
今回はライティングテーマが「偏頭痛」でした。これまで、参加者全員の作品をプリントアウトして全員に配り、それを見ながら読み合わせをしていたんですが、今回からプリントアウトは本人作品のみにして、ほかの人は私も含めて耳で聞くようにしました。そのことが、「いまここ」の集中力を高めることは確かなのです。真剣に聞き、真剣に感じたことを受け止めて、それを表現しあいます。
このテキストゼミも含め、この日一日、私は自分自身の「いまここ」を大切にできた、とても充実した一日のような感じがしました。毎日このようにすごしていけたら、悔いのない生き方となるに違いありません。
東京は晴れていい天気だったのに、小松は強風と雷光の荒れた天気。左右にあおられながら不安定な着陸で、ひさしぶりに肝を冷やしました。ま、無事でしたが。これからの北陸の冬は、雪による運行中止や荒天など、予定どおりにはいかないことが起きそうで、覚悟が必要です。
実家では冬支度をいくらかやって(雪囲いの修理とか枝を払った後始末とか)、翌日は電車で移動。名古屋経由、小牧へ。
こまきみらい塾の現代朗読講座4回めでした。
これまでこの講座では、40名の参加者という大人数に対応するため、グループワークがほとんどだったのですが、今回はなるべくひとりひとりとコミュニケートしたいと思って、ひとりずつ順番に話してもらうことにしました。質問、感想、参加した理由など、さまざまな声をひとりずつ丁寧に聞かせてもらい、それに応えていくことで、これまでとはまた質の異なるつながりの深い講座になったような気がします。とても充実した、楽しい時間でした。
名古屋に戻って、投宿。
翌日は東京戻り。午後は朗読ゼミ。
参加者が少なかったので、羽根木の家の掘りごたつでまったりと。とはいっても、7人くらいはひとつのこたつに足を突っ込んで、肩を寄せ合っていたわけですが。それが理由かもしれませんが、とても親密で共感的な話と朗読の聞き合いができて、暖かい気分になりました。
夜はテキスト表現ゼミ。
こちらもまたもや、掘りごたつゼミ。参加者が昼より多くなったので、さらに窮屈で親密になりました。
今回はライティングテーマが「偏頭痛」でした。これまで、参加者全員の作品をプリントアウトして全員に配り、それを見ながら読み合わせをしていたんですが、今回からプリントアウトは本人作品のみにして、ほかの人は私も含めて耳で聞くようにしました。そのことが、「いまここ」の集中力を高めることは確かなのです。真剣に聞き、真剣に感じたことを受け止めて、それを表現しあいます。
このテキストゼミも含め、この日一日、私は自分自身の「いまここ」を大切にできた、とても充実した一日のような感じがしました。毎日このようにすごしていけたら、悔いのない生き方となるに違いありません。
2011年11月26日土曜日
コンテンポラリーアートとしての「槐多朗読」
京王線明大前にキッド・アイラック・ホールという東京でも老舗といっていい小劇場があります。演劇、音楽、朗読、美術、いろいろな文化的な催しが連日行なわれています。私が住んでいる羽根木からは歩いて行ける距離なので、いつかここで現代朗読のイベントをやれるといいなあと思っているんですが、私たちは集客力に自信がないので、いまのところは指をくわえて見ています。
このホールの地下に〈槐多〉というブックカフェがあります。ゼミ生のなおさんがいつもここに現代朗読イベントのチラシなどを置きに行ってくれていたんですが、あるとき、ブックカフェのほうで朗読をやらない? という素敵な提案をカフェの方からいただきました。もちろん、やりますとも!
というわけで、次の月曜日・28日の夜、ブックカフェ〈槐多〉で朗読会「槐多朗読」をやります。
定員は18名ととても限定的なんですが、まだ席はあります。どうぞお申し込みください。直接「090-9962-0848」こちらまで電話ください。
カフェは高い天井と本棚にこだわりの本が並んだとてもおもしろい空間です。そこでコンテンポラリーアートとしての現代朗読をおこないます。空間とパフォーマンスを楽しみにいらしてください。ドリンク付きで1,500円です。
このホールの地下に〈槐多〉というブックカフェがあります。ゼミ生のなおさんがいつもここに現代朗読イベントのチラシなどを置きに行ってくれていたんですが、あるとき、ブックカフェのほうで朗読をやらない? という素敵な提案をカフェの方からいただきました。もちろん、やりますとも!
というわけで、次の月曜日・28日の夜、ブックカフェ〈槐多〉で朗読会「槐多朗読」をやります。
定員は18名ととても限定的なんですが、まだ席はあります。どうぞお申し込みください。直接「090-9962-0848」こちらまで電話ください。
カフェは高い天井と本棚にこだわりの本が並んだとてもおもしろい空間です。そこでコンテンポラリーアートとしての現代朗読をおこないます。空間とパフォーマンスを楽しみにいらしてください。ドリンク付きで1,500円です。
2011年11月25日金曜日
二級ボイスセラピスト講座が開催されます
ボイスセラピストの二級資格を認定するための講座が、次の日曜日(27日)にあります。これは、本格的に音読ケアワーカーとして自立をめざすほかに、ちょっと家庭や職場、あるいは自分自身の心身ケアのために有効なボイスセラピーの方法を身につけておきたい、というような人におすすめです。
いうまでもなく現代人は多くのストレスにさらされて生活しています。そのストレスは心身の不調となって現われます。それを「解消する」「注意をそらす」のではなく、どうやって「付き合っていく」のか、その扱い方に上達する方法のひとつがボイスセラピーです。
ストレスを受けると、怒り、悲しみ、後悔、さまざまな感情に身体を含めて支配されてしまいます。その感情を消したり、注意をそらすのではなく、まずは完全に受け止めて自分がどのような状態にあるのかを認めます。自分のなかにどのような感情が生まれているのか、それはどこから来たのか、を認識するのです。これを「メタ認知」といいます。これができるだけでも人は随分落ち着きを取り戻します。
このプロセスを、自分の呼吸と声を使って行なうのがボイスセラピーです。
一日で終わる講座ですので、気楽にご参加ください。詳細はこちら。
いうまでもなく現代人は多くのストレスにさらされて生活しています。そのストレスは心身の不調となって現われます。それを「解消する」「注意をそらす」のではなく、どうやって「付き合っていく」のか、その扱い方に上達する方法のひとつがボイスセラピーです。
ストレスを受けると、怒り、悲しみ、後悔、さまざまな感情に身体を含めて支配されてしまいます。その感情を消したり、注意をそらすのではなく、まずは完全に受け止めて自分がどのような状態にあるのかを認めます。自分のなかにどのような感情が生まれているのか、それはどこから来たのか、を認識するのです。これを「メタ認知」といいます。これができるだけでも人は随分落ち着きを取り戻します。
このプロセスを、自分の呼吸と声を使って行なうのがボイスセラピーです。
一日で終わる講座ですので、気楽にご参加ください。詳細はこちら。
2011年11月24日木曜日
日本の語り芸の伝統の延長線上に現代朗読を置く
いま、日本で普通におこなわれている朗読会や朗読ライブを見ると、たいていは朗読の教室や勉強グループの人たちが発表する形で行なわれているものが多いようです。たまにひとりで企画したり、同好の士が集まって開いたりするものもあるようです。いずれにしても、出演する人はなんらかの形で朗読を「習った」あるいは「勉強した」人が多いようです。我流で始めて、人のことなんか我関せずとオリジナリティを打ち出して突っ走っている人もなかにはいるんでしょうが、私はあまり見かけたことはありません。
では、その朗読を「習う/勉強する」というのは、なにを「習う/勉強する」ということなのでしょうか。
私は朗読教室に行ったことはありませんが(なにしろ自分では朗読をやったことがないので)、聞いたところでは、日本語の「正しい」発音発声をまず教わるそうです。つまり、正しい母音や子音の発音や滑舌、共通語アクセント、鼻濁音、無声化などの技術を習います。
ほかにも呼吸や姿勢をやったり、文芸作品の読解をやったりもするようですが、基本的におこなっているのは「放送技術」の習得といっていいようです。
この放送技術はどこから来たものなのかというと、言葉どおり、ラジオやテレビの放送が始まったとき、その放送の現場から始まったものです。大正から昭和にかけて、まずラジオが普及しました。戦後、昭和30年代に今度はテレビが全国に普及しました。放送メディアというものが出現したわけですが、それにともなってアナウンサーやナレーター、声優といった、放送に関わる専門職も発生しました。
全国津々浦々に電波が届くわけですから、話の内容が全国の人に伝わらなければなりません。そのために、放送のための話し方「放送技術」が生まれ、工夫され、現在にいたっているわけです。
ラジオでは朗読も流れ、それは彼ら専門職が中心となってやがて朗読会も開かれるようになりました。それを聞いた一般人も、自分も朗読をやりたいと思い、彼らに習うようになっていきます。朗読を習いたいという需要が、朗読講座や教室の需要を生み、放送局の朗読指導講座やカルチャーセンター、ナレーター事務所の養成所といったところでも、日本語の話し方・朗読の技術の教育がおこなわれるようになりました。
これが現在の朗読の普及のありかたです。
こうやって見てくるとわかるように、いまの日本で一般的におこなわれている朗読は、放送技術をもっとも大きなよりどころとしています。「表現」としての朗読について深く思考/試行されているわけではありません。
一方で、日本ではいにしえから豊かな「語り」の芸が脈々と引き継がれています。もっとも古くは「語り部」でしょう。一家のおばあちゃんが語っていたものから、専門職までさまざまな語り部がいたことでしょう。
平安時代には琵琶を演奏しながら朗々と語る(うたう)琵琶語りが各地をめぐりました。
それから能や狂言が生まれました。これは舞台表現の始まりです。私が「舞台」といっているのは、表現のための設置する「場」のことです。かならずしも文字通りの「舞台」がなければならないわけではありません。
その後、浄瑠璃・文楽が生まれました。そこには専門的な語り手がいます。また江戸時代には、演劇に近いものですが、やはり声も使う舞台表現といっていい歌舞伎が生まれました。落語や講談も江戸時代に生まれました。
このように、「語り芸」の歴史が日本にはあるのです。
朗読はこの語り芸の流れの延長線上にあるといえるでしょうか。
私はいえないと考えています。朗読は放送メディアが生まれたことによって突然出現した「技術」です。技術的な面から「表現」へのアプローチは確かにあります。文芸作品を深く読みこんで、なんとか「表現」へと高めようと努力している人は多くいます。が、私はこの「放送技術」を出発点とした一般的な朗読にはどうしてもなじめないのです。
では、現代朗読はなにをよりどころとしているのでしょうか。
現代朗読では「表現」が前提としてまずあります。しかもその「表現」は、多くのコンテンポラリーアートがそうであるように、個人の唯一無二の存在そのものを伝えることを目的にします。技術もやらないことはありませんが、技術はあくまで表現に付随するものであり、下位レベルです。
表現といえば、日本には古来から「語り芸」という表現の立派な歴史があります。現代朗読も、実はこの伝統から学ぶべきものを学び、この語り芸の延長線上に朗読表現を起きたいと思っています。しかし、あくまで「現代」の「いまここ」に焦点をあてた表現ですから、伝統技能を学ぶということではありません。日本が長らくつちかってきた表現の思想、そして身体使いの方法を学びながら、なおかつコンテンポラリーでなにものにもとらわれない表現を模索しようというのです。
こう考えることで、私のなかで違和感がすっきりと解消しました。いま、現代朗読が向かうべき方向性がはっきりしたと感じています。
では、その朗読を「習う/勉強する」というのは、なにを「習う/勉強する」ということなのでしょうか。
私は朗読教室に行ったことはありませんが(なにしろ自分では朗読をやったことがないので)、聞いたところでは、日本語の「正しい」発音発声をまず教わるそうです。つまり、正しい母音や子音の発音や滑舌、共通語アクセント、鼻濁音、無声化などの技術を習います。
ほかにも呼吸や姿勢をやったり、文芸作品の読解をやったりもするようですが、基本的におこなっているのは「放送技術」の習得といっていいようです。
この放送技術はどこから来たものなのかというと、言葉どおり、ラジオやテレビの放送が始まったとき、その放送の現場から始まったものです。大正から昭和にかけて、まずラジオが普及しました。戦後、昭和30年代に今度はテレビが全国に普及しました。放送メディアというものが出現したわけですが、それにともなってアナウンサーやナレーター、声優といった、放送に関わる専門職も発生しました。
全国津々浦々に電波が届くわけですから、話の内容が全国の人に伝わらなければなりません。そのために、放送のための話し方「放送技術」が生まれ、工夫され、現在にいたっているわけです。
ラジオでは朗読も流れ、それは彼ら専門職が中心となってやがて朗読会も開かれるようになりました。それを聞いた一般人も、自分も朗読をやりたいと思い、彼らに習うようになっていきます。朗読を習いたいという需要が、朗読講座や教室の需要を生み、放送局の朗読指導講座やカルチャーセンター、ナレーター事務所の養成所といったところでも、日本語の話し方・朗読の技術の教育がおこなわれるようになりました。
これが現在の朗読の普及のありかたです。
こうやって見てくるとわかるように、いまの日本で一般的におこなわれている朗読は、放送技術をもっとも大きなよりどころとしています。「表現」としての朗読について深く思考/試行されているわけではありません。
一方で、日本ではいにしえから豊かな「語り」の芸が脈々と引き継がれています。もっとも古くは「語り部」でしょう。一家のおばあちゃんが語っていたものから、専門職までさまざまな語り部がいたことでしょう。
平安時代には琵琶を演奏しながら朗々と語る(うたう)琵琶語りが各地をめぐりました。
それから能や狂言が生まれました。これは舞台表現の始まりです。私が「舞台」といっているのは、表現のための設置する「場」のことです。かならずしも文字通りの「舞台」がなければならないわけではありません。
その後、浄瑠璃・文楽が生まれました。そこには専門的な語り手がいます。また江戸時代には、演劇に近いものですが、やはり声も使う舞台表現といっていい歌舞伎が生まれました。落語や講談も江戸時代に生まれました。
このように、「語り芸」の歴史が日本にはあるのです。
朗読はこの語り芸の流れの延長線上にあるといえるでしょうか。
私はいえないと考えています。朗読は放送メディアが生まれたことによって突然出現した「技術」です。技術的な面から「表現」へのアプローチは確かにあります。文芸作品を深く読みこんで、なんとか「表現」へと高めようと努力している人は多くいます。が、私はこの「放送技術」を出発点とした一般的な朗読にはどうしてもなじめないのです。
では、現代朗読はなにをよりどころとしているのでしょうか。
現代朗読では「表現」が前提としてまずあります。しかもその「表現」は、多くのコンテンポラリーアートがそうであるように、個人の唯一無二の存在そのものを伝えることを目的にします。技術もやらないことはありませんが、技術はあくまで表現に付随するものであり、下位レベルです。
表現といえば、日本には古来から「語り芸」という表現の立派な歴史があります。現代朗読も、実はこの伝統から学ぶべきものを学び、この語り芸の延長線上に朗読表現を起きたいと思っています。しかし、あくまで「現代」の「いまここ」に焦点をあてた表現ですから、伝統技能を学ぶということではありません。日本が長らくつちかってきた表現の思想、そして身体使いの方法を学びながら、なおかつコンテンポラリーでなにものにもとらわれない表現を模索しようというのです。
こう考えることで、私のなかで違和感がすっきりと解消しました。いま、現代朗読が向かうべき方向性がはっきりしたと感じています。
秘密のNVCコマンドー
コロンビアから来たNVCトレーナーのホルヘ・ルビオによるワークショップが、昨日終わりました。約一週間の日本滞在の最後のセッションでした。私は昨日も含め、すべてのセッションに参加したほか、丸一日、彼と東京観光を楽しみました。とても濃密で、大切で、学びの多い特別な一週間でした。そしてこの一週間はなにかが終了したのではなく、なにかが始まる一週間になるような気がしています。
今日のワークショップでホルヘはおもしろい言葉をいいました。
「The Secret Empathic Commnado」
極秘共感的部隊とでもいいましょうか。
NVCを学んできた、と親しい人にいうと、なにか変な自己啓発セミナーみたいなものを受けてきたんじゃないかと警戒されることがあります。そして私が口を開くたびに、怪しいワザを使っていいたくもない秘密を暴かれるんじゃないか、と。
NVCに違和感を感じ、意識的に距離を置いていた私にも、そういう時期がありました。しかし、なにもわざわざNVCという言葉を教える必要はないのです。ただ実践すればいい。それを生きればいい。なにもいわずに。秘密にしておいたっていい。極秘のコマンドーとして行動すればいい。
秘密のNVCコマンドーが世の中に増えれば、どれほどたくさんの存在が尊重されることでしょうね。
今日のワークショップでホルヘはおもしろい言葉をいいました。
「The Secret Empathic Commnado」
極秘共感的部隊とでもいいましょうか。
NVCを学んできた、と親しい人にいうと、なにか変な自己啓発セミナーみたいなものを受けてきたんじゃないかと警戒されることがあります。そして私が口を開くたびに、怪しいワザを使っていいたくもない秘密を暴かれるんじゃないか、と。
NVCに違和感を感じ、意識的に距離を置いていた私にも、そういう時期がありました。しかし、なにもわざわざNVCという言葉を教える必要はないのです。ただ実践すればいい。それを生きればいい。なにもいわずに。秘密にしておいたっていい。極秘のコマンドーとして行動すればいい。
秘密のNVCコマンドーが世の中に増えれば、どれほどたくさんの存在が尊重されることでしょうね。
2011年11月23日水曜日
自分自身の面倒をきちんと見る
なんとなくここ数日間で生まれ変わったような感じがしています。もちろん、NVCトレーナーのホルヘ・ルビオとのセッションのおかげです。
自分が自分を否定してきたこと、他人を否定的に見ていたこと、エネミー・イメージを持っていたこと、そういったことが全部クリアになって、すべては人生や生命が本来あるべきニュートラルな土俵があらためて見えてきたような気がしています。
もちろん人生には限りがあって、私もかなり長く生きてきましたから時間が余りあるわけではありませんが、たったいま、ここにいる私が、クリアな状態でいられることに感謝したいです。この感謝は、次世代へと具体的に伝えていきたいというのが、私の望みのひとつです。
欲張りなので、もちろん望みはそのひとつだけではありません。些細なことから大きなことまでいろいろあります。書きたい、描きたい、奏でたい、作りたい、たくさんあります。いずれにしても「いまここ」の私の意識、ホルヘのいう「Vivencia」。
人はきちんと自分自身の面倒をみることが大切です。それができていないと、いろいろなことのクオリティが低下してしまいます。一度きりの人生、大切に、丁寧に生きてみたいですね。
自分が自分を否定してきたこと、他人を否定的に見ていたこと、エネミー・イメージを持っていたこと、そういったことが全部クリアになって、すべては人生や生命が本来あるべきニュートラルな土俵があらためて見えてきたような気がしています。
もちろん人生には限りがあって、私もかなり長く生きてきましたから時間が余りあるわけではありませんが、たったいま、ここにいる私が、クリアな状態でいられることに感謝したいです。この感謝は、次世代へと具体的に伝えていきたいというのが、私の望みのひとつです。
欲張りなので、もちろん望みはそのひとつだけではありません。些細なことから大きなことまでいろいろあります。書きたい、描きたい、奏でたい、作りたい、たくさんあります。いずれにしても「いまここ」の私の意識、ホルヘのいう「Vivencia」。
人はきちんと自分自身の面倒をみることが大切です。それができていないと、いろいろなことのクオリティが低下してしまいます。一度きりの人生、大切に、丁寧に生きてみたいですね。
2011年11月22日火曜日
NVCの実践でもマインドフルネスがキーワードだった
ちょくちょくと書きましたが、先週の金曜日からNVC(Nonviolent Communicatio / 非暴力コミュニケーション)の合宿が始まって、明日のワークショップで一連のイベントの最終となります。
私がNVCのイベントにここまでべったりと関わったのは初めてのことです。
今回、招いた国際公認インストラクターは、コロンビア人のホルヘ・ルビオ。私に最初にNVCを教えてくれて、以来ずっとプライベートにリードしてくれている友人のケンちゃんの推薦で、日本でも招聘チームが作られ、私もその端っこに加えてもらっていたのです。
ホルヘの教えるNVCは、これまでのどのトレーナーとも異なっています。
もちろんこれまでのトレーナーはいずれもすばらしい人たちで、だれひとりとして忘れることができません。が、ホルヘは「私にとって」特別な感じがします。うまく文字で書くのは難しいんですが、一種の相性といってもいいかもしれません。曖昧な言葉なのであまり使いたくないんですが。
NVCについては勉強をつづけてきたし、人にも勧めたり、また現代朗読協会の活動やゼミで実践したりもしていたんですが、どうとははっきりいえない違和感が身体の片隅にずっとわだかまっていて、居心地の悪さを感じていました。それが今回のホルヘとのセッションでじつにすっきりと取り払われたような気がします。それは、私がNVCとは関係なく考えたりいいつづけてきたことが、ホルヘのNVCのなかにとても似た形ではいっていることを発見してうれしかった、ということもあります。
「なんだ、とても似たようなことをやっていたんだ」
という喜びもあります。
ホルヘは Vivencia という言葉を強調します。これは訳するのが難しいんですが、私たちが「いまここ」でなにを経験し、どう感じ、どのような生きていることの感触(クオリア?)を持っているか、ということについての意識のことです。
これはまさに「マインドフルネス」の状態のときに起こる「メタ認知」にほかならないと私は思っています。これが起こるとき、私たちはものごとや感情に対するさまざまな執着からのがれ、感覚のシフトを経験します。
ホルヘは怒りや悲しみ、妬み、寂しさ、といった、私たちが通常「よくない」と思っている感情にも居場所を与えようとします。だれかに対して強い怒りを覚えたとき、その怒りを存分にふくらませるスペースを自分のなかにあたえ、メロドラマじみた怒りのドラマを自分のなかで作らせます。
自分のなかにスペースを作ることを「puff up」と表現していました。そしてその自分の状態を「puffer fish(ふぐ)」にたとえ、とてもコミカルに仕草で表現してくれるのです。その姿が私の脳裏に染みつき、「puff up」の具体的なイメージが私のなかに浸透したのでした。
だれかに対して共感的になれずにいる自分を発見したとき、ついその自分を否定しがちです。そして「共感的にならなければ」と自分に強います。が、そのとき、「共感的になりたくない自分」を押し殺してしまうことになるのです。自分の一方をないがしろにすることで、自分の命の半分を殺してしまいます。
そうではなく、「共感的になりたい自分」も「共感的になりたくない自分」も Vivencia として認め、そこに存分に活躍のスペースを与えてやる。そのあとで、ゆっくりと呼吸をし、落ち着いてものごとに対処する。
怒りの感情を自分のなかで暴れさせ、自分で自分の感情に共感を与えたあとは、とくにだれかにあらためて共感してもらわなくても落ち着けるのです。そのテクニックをホルヘは教えてくれました。
というような堅苦しい話とは別に、昨日はホルヘが一日なにも予定がない、アテンドできる人もいない、ということで、私がアテンド役を買って出て、大変楽しい一日を彼とすごしてきました。
午前中に渋谷のホテルまでホルヘを迎えに行きました。最初に彼の目的地であった赤羽のお茶店に行こうとしたんですが、念のために調べてみたら、なんと今日と明日は臨時休業とのことでした。
予定を繰り上げて、浅草へ。
浅草ではホルヘが大変喜んでくれて(初来日だったのでまあそうでしょうね)、おみやげを大量に買いこんでいるのにはちょっと心配するほどびっくり。
ツイッターで「浅草なう」とつぶやいたら、すぐにホルヘ招聘チームの久美子さんが応えてくれて、休養日だったにもかかわらず夫の陣さんと駆けつけてくれました。浅草に詳しい久美子さんのおかげで、おいしい昼食とお茶屋に案内してもらって、ホルヘも大満足。
久美子さんたちと別れて、秋葉原へ。パチンコ屋に連れこんでびっくりさせたり、プリクラを撮って遊んだりしていたら、もう夕方。ぐるっと渋谷にもどり、焼き鳥屋でビールと焼き鳥。
一杯やったあと、ホテルまで送って、解散。子どもにもどったみたいに楽しい一日でした。
明日は茗荷谷で最後のワークショップが一日あります。
あいにく、50名の定員はすでに一杯であらたに参加をすすめることはできないんですが、招聘チームの一員としてみなさんのサポートができることに期待をふくらまらせています。
明日も私が私とともにいられる一日でありますように。つまりはマインドフルにいられる、ということですが。
私がNVCのイベントにここまでべったりと関わったのは初めてのことです。
今回、招いた国際公認インストラクターは、コロンビア人のホルヘ・ルビオ。私に最初にNVCを教えてくれて、以来ずっとプライベートにリードしてくれている友人のケンちゃんの推薦で、日本でも招聘チームが作られ、私もその端っこに加えてもらっていたのです。
ホルヘの教えるNVCは、これまでのどのトレーナーとも異なっています。
もちろんこれまでのトレーナーはいずれもすばらしい人たちで、だれひとりとして忘れることができません。が、ホルヘは「私にとって」特別な感じがします。うまく文字で書くのは難しいんですが、一種の相性といってもいいかもしれません。曖昧な言葉なのであまり使いたくないんですが。
NVCについては勉強をつづけてきたし、人にも勧めたり、また現代朗読協会の活動やゼミで実践したりもしていたんですが、どうとははっきりいえない違和感が身体の片隅にずっとわだかまっていて、居心地の悪さを感じていました。それが今回のホルヘとのセッションでじつにすっきりと取り払われたような気がします。それは、私がNVCとは関係なく考えたりいいつづけてきたことが、ホルヘのNVCのなかにとても似た形ではいっていることを発見してうれしかった、ということもあります。
「なんだ、とても似たようなことをやっていたんだ」
という喜びもあります。
ホルヘは Vivencia という言葉を強調します。これは訳するのが難しいんですが、私たちが「いまここ」でなにを経験し、どう感じ、どのような生きていることの感触(クオリア?)を持っているか、ということについての意識のことです。
これはまさに「マインドフルネス」の状態のときに起こる「メタ認知」にほかならないと私は思っています。これが起こるとき、私たちはものごとや感情に対するさまざまな執着からのがれ、感覚のシフトを経験します。
ホルヘは怒りや悲しみ、妬み、寂しさ、といった、私たちが通常「よくない」と思っている感情にも居場所を与えようとします。だれかに対して強い怒りを覚えたとき、その怒りを存分にふくらませるスペースを自分のなかにあたえ、メロドラマじみた怒りのドラマを自分のなかで作らせます。
自分のなかにスペースを作ることを「puff up」と表現していました。そしてその自分の状態を「puffer fish(ふぐ)」にたとえ、とてもコミカルに仕草で表現してくれるのです。その姿が私の脳裏に染みつき、「puff up」の具体的なイメージが私のなかに浸透したのでした。
だれかに対して共感的になれずにいる自分を発見したとき、ついその自分を否定しがちです。そして「共感的にならなければ」と自分に強います。が、そのとき、「共感的になりたくない自分」を押し殺してしまうことになるのです。自分の一方をないがしろにすることで、自分の命の半分を殺してしまいます。
そうではなく、「共感的になりたい自分」も「共感的になりたくない自分」も Vivencia として認め、そこに存分に活躍のスペースを与えてやる。そのあとで、ゆっくりと呼吸をし、落ち着いてものごとに対処する。
怒りの感情を自分のなかで暴れさせ、自分で自分の感情に共感を与えたあとは、とくにだれかにあらためて共感してもらわなくても落ち着けるのです。そのテクニックをホルヘは教えてくれました。
というような堅苦しい話とは別に、昨日はホルヘが一日なにも予定がない、アテンドできる人もいない、ということで、私がアテンド役を買って出て、大変楽しい一日を彼とすごしてきました。
午前中に渋谷のホテルまでホルヘを迎えに行きました。最初に彼の目的地であった赤羽のお茶店に行こうとしたんですが、念のために調べてみたら、なんと今日と明日は臨時休業とのことでした。
予定を繰り上げて、浅草へ。
浅草ではホルヘが大変喜んでくれて(初来日だったのでまあそうでしょうね)、おみやげを大量に買いこんでいるのにはちょっと心配するほどびっくり。
ツイッターで「浅草なう」とつぶやいたら、すぐにホルヘ招聘チームの久美子さんが応えてくれて、休養日だったにもかかわらず夫の陣さんと駆けつけてくれました。浅草に詳しい久美子さんのおかげで、おいしい昼食とお茶屋に案内してもらって、ホルヘも大満足。
久美子さんたちと別れて、秋葉原へ。パチンコ屋に連れこんでびっくりさせたり、プリクラを撮って遊んだりしていたら、もう夕方。ぐるっと渋谷にもどり、焼き鳥屋でビールと焼き鳥。
一杯やったあと、ホテルまで送って、解散。子どもにもどったみたいに楽しい一日でした。
明日は茗荷谷で最後のワークショップが一日あります。
あいにく、50名の定員はすでに一杯であらたに参加をすすめることはできないんですが、招聘チームの一員としてみなさんのサポートができることに期待をふくらまらせています。
明日も私が私とともにいられる一日でありますように。つまりはマインドフルにいられる、ということですが。
朗読の記事・中国新聞
クレイジー東京観光の一日
エキサイティングな二日間のNVC合宿のあとは、トレーナーのホルヘ・ルビオと東京観光の一日でした。
スタッフのだれもホルヘのアテンドをできる者がいないようだったので、名乗り出て彼を観光に連れ出したのです。コスタリカに一年留学していたことがある某女子大生も同行。というのも、ホルヘはコロンビア人なので、母国語がコスタリカとおなじスペイン語なのです。NVC合宿では英語を使いますが。
私はスペイン語ができないし、英語も話すほうはからきしダメなので、彼女がいてくれて大助かり。
定番の浅草と秋葉原に行きました。ガイジンの眼になっておもしろそうなところを案内。浅草ではNVCをいっしょに勉強している仲間の久美子さん夫妻も駆けつけてくれ、おいしい店や、ホルヘの大好きな日本茶の店に案内することができました。
おもしろかったのは、秋葉原で通りがかって「パチンコってなに?」と聞かれたので、百聞は一見にしかずと店内に連れこんだら、それはまあびっくりすること。大音量と、人々が台に向かって目を血走らせている光景。あらためて見ると、日本人ってクレイジーな面も多分にありますね。
でも、日本に生まれ、日本に住んでいる幸せがあります。なかなか認識しにくいですが。ホルヘはよほど気にいってくれたらしく「帰りたくない」を連発してました。
スタッフのだれもホルヘのアテンドをできる者がいないようだったので、名乗り出て彼を観光に連れ出したのです。コスタリカに一年留学していたことがある某女子大生も同行。というのも、ホルヘはコロンビア人なので、母国語がコスタリカとおなじスペイン語なのです。NVC合宿では英語を使いますが。
私はスペイン語ができないし、英語も話すほうはからきしダメなので、彼女がいてくれて大助かり。
定番の浅草と秋葉原に行きました。ガイジンの眼になっておもしろそうなところを案内。浅草ではNVCをいっしょに勉強している仲間の久美子さん夫妻も駆けつけてくれ、おいしい店や、ホルヘの大好きな日本茶の店に案内することができました。
おもしろかったのは、秋葉原で通りがかって「パチンコってなに?」と聞かれたので、百聞は一見にしかずと店内に連れこんだら、それはまあびっくりすること。大音量と、人々が台に向かって目を血走らせている光景。あらためて見ると、日本人ってクレイジーな面も多分にありますね。
でも、日本に生まれ、日本に住んでいる幸せがあります。なかなか認識しにくいですが。ホルヘはよほど気にいってくれたらしく「帰りたくない」を連発してました。
2011年11月21日月曜日
大波でサーフィンを楽しむように生きよう
エキサイティングなNVC(非暴力コミュニケーション)合宿の二日間が終わりました。
にわかにいいつくせないほど多くの学びがあった二日間でしたが、そのなかでもとくに深く心に刻まれたことがあります。それは「人に共感的であらねばならない」と自分が思ってそうふるまっているとき、共感的でありたくない気分の自分を抑え付けてしまっているこということです。そのことのストレスが生まれます。「共感したい」にせよ、「いまはめんどくさいので共感したくない」にせよ、いずれも自分の内側から来ている大きなメッセージであり、それをまず自分が受け取ることが出発点だと、今回のトレーナーのホルヘはいうのです。
怒りや悲しみ、平和を乱すもの、暴力といった、私たちが否定的にとらえているものすら強い命のメッセージから来ているので、それをスペースをもって受けいれることから出発したい。
この二日間で受け取ったことは、とてもにわかに消化しきれるものではないですが、それがゆっくりと私の身体のなかに浸透していく時間を楽しみたいと思っています。
ホルヘ・ルビオのセッションは自由で、気ままで、なにも決まりごとがなく、どこへ向かうのかまるでわからず、しかし瞬間瞬間に驚くようなことが起こり、まさにライブでした。私の友人のケンが、私をホルヘに会わせたいといってくれたときから、半信半疑でこのときを待っていましたが、想像以上のことが起こったことをケンとホルヘに心から感謝します。
にわかにいいつくせないほど多くの学びがあった二日間でしたが、そのなかでもとくに深く心に刻まれたことがあります。それは「人に共感的であらねばならない」と自分が思ってそうふるまっているとき、共感的でありたくない気分の自分を抑え付けてしまっているこということです。そのことのストレスが生まれます。「共感したい」にせよ、「いまはめんどくさいので共感したくない」にせよ、いずれも自分の内側から来ている大きなメッセージであり、それをまず自分が受け取ることが出発点だと、今回のトレーナーのホルヘはいうのです。
怒りや悲しみ、平和を乱すもの、暴力といった、私たちが否定的にとらえているものすら強い命のメッセージから来ているので、それをスペースをもって受けいれることから出発したい。
この二日間で受け取ったことは、とてもにわかに消化しきれるものではないですが、それがゆっくりと私の身体のなかに浸透していく時間を楽しみたいと思っています。
ホルヘ・ルビオのセッションは自由で、気ままで、なにも決まりごとがなく、どこへ向かうのかまるでわからず、しかし瞬間瞬間に驚くようなことが起こり、まさにライブでした。私の友人のケンが、私をホルヘに会わせたいといってくれたときから、半信半疑でこのときを待っていましたが、想像以上のことが起こったことをケンとホルヘに心から感謝します。
2011年11月20日日曜日
いい人であろうとすることの代償は高い
NVC合宿の一日めが終わりました。お昼すぎから始まって、夜までみっちりとトレーナーのホルヘ・ルビオとの学びの時間。時間がゆっくりと、しかし濃密に流れていきます。
一日めの学びで私にとってもっとも印象的だったのは、「他人に対していい人であろうとすることの代償は高くつく」という言葉でした。私にも心当たりが大いにありますが、なにか人から頼まれごとをする、あるいは悲しんでいる人や困っている人を見たとき、自分のニーズを棚にあげて「いい人」になろうとする習癖があります。それはおそらく、自分を他人の尺度のなかで「よい評価」を得ようとする習慣的な行動でしょう。
私たちはだれかの期待に応えようとする習性を身につけて成長してきたのです。それは親であり、教師であったかもしれません。
その期待に応えようとする行為が、自分のニーズにつながっていないとき、私たちはいずれ代償を払うことになります。それは相手についてもおなじことです。ある行動が自分のニーズにつながっていないとき、「ノー」といえる勇気を持つこと。結果的にそれが自分と相手の尊重になるということ。
ほかにも「木と風のエチュード」という、とても温かで創造的な、そして言葉を使わないコミュニケーションのエチュードがあって、とても楽しかったので、これは現代朗読のエチュードとしてもお借りしようと思いました。
一日めの学びで私にとってもっとも印象的だったのは、「他人に対していい人であろうとすることの代償は高くつく」という言葉でした。私にも心当たりが大いにありますが、なにか人から頼まれごとをする、あるいは悲しんでいる人や困っている人を見たとき、自分のニーズを棚にあげて「いい人」になろうとする習癖があります。それはおそらく、自分を他人の尺度のなかで「よい評価」を得ようとする習慣的な行動でしょう。
私たちはだれかの期待に応えようとする習性を身につけて成長してきたのです。それは親であり、教師であったかもしれません。
その期待に応えようとする行為が、自分のニーズにつながっていないとき、私たちはいずれ代償を払うことになります。それは相手についてもおなじことです。ある行動が自分のニーズにつながっていないとき、「ノー」といえる勇気を持つこと。結果的にそれが自分と相手の尊重になるということ。
ほかにも「木と風のエチュード」という、とても温かで創造的な、そして言葉を使わないコミュニケーションのエチュードがあって、とても楽しかったので、これは現代朗読のエチュードとしてもお借りしようと思いました。
2011年11月19日土曜日
われ、5キロダイエットに成功せり
3月の震災を契機に体重が増えつづけ、気がついたら5月には65キロになっていました。かつて経験したことのない重量です。当然ながら身体は重く、動きも鈍い。
その前の2月には気管支炎から肺炎になりかけるほど体調をくずし、一時57キロ台まで落ちていたので、8キロ近い急激な増加です。身体にいいはずがない。
というわけで、体重を絞ることにしました。それが5月のこと。
もともと私は学生時代、体重が50キロそこそこしかなかったんですが、その後じわじわと増えていって、40歳以降は60キロ前後でほぼ安定してました。したがって、今回もせめて60キロまでは落としたい。できれば、筋肉量を増えしながら、それを上回って脂肪を落としたい。
ダイエットの方法はシンプルで簡単なもの。
(1) 毎日体重を計ってグラフにつける。
(2) 夜は食べない。もし食べるなら極力糖質は取らない。
(3) なるべく歩いたり、運動する。
これだけです。
(2)のところで「えー」という人が多いんですが、慣れればどうってことないです。人間はもともと一日二食だったのです。それが産業革命以後、三食以上食べてカロリーをたくさん摂取し、馬車馬のように働くことを資本家から強要されるようになったのが、現代社会習慣としていまだに続いているだけですから。
慣れると、お腹になにか入っていると気持ち悪くて寝られないようになります。お腹をからっぽにして眠りにつき、翌日中にしっかり食べる。
(3)が一番実行が難しかったですね。いまだになかなか運動量を増やせていません。5キロ落としたのは全部脂肪分です。今後の目標は、筋肉量を増やして同時に脂肪を落としていくことです。ほとんど家にいて、パソコンに向かっている生活なので、意識的に運動しないとなかなか運動量は増えません。だからプールに通っているんですが、これも週に二回くらいが限度です。それでもやらないよりはましです。
この半年くらいの間、自分へのプレッシャーとして「ラーメン断ち」を決行しました。
私は毎日ラーメンでもいいくらいラーメン好きなんですが、体重が60キロを切るまではラーメンを口にしないと決めたのです。
それが昨日、ようやく60キロを切ったので、今日の昼、ラーメンを食べてきました。ささやかなお祝いです。ひとりで孤独に、でしたが。
今後も「60キロを切っていないときはラーメンを食べられないルール」を自分に適用しつづけるつもりです。
その前の2月には気管支炎から肺炎になりかけるほど体調をくずし、一時57キロ台まで落ちていたので、8キロ近い急激な増加です。身体にいいはずがない。
というわけで、体重を絞ることにしました。それが5月のこと。
もともと私は学生時代、体重が50キロそこそこしかなかったんですが、その後じわじわと増えていって、40歳以降は60キロ前後でほぼ安定してました。したがって、今回もせめて60キロまでは落としたい。できれば、筋肉量を増えしながら、それを上回って脂肪を落としたい。
ダイエットの方法はシンプルで簡単なもの。
(1) 毎日体重を計ってグラフにつける。
(2) 夜は食べない。もし食べるなら極力糖質は取らない。
(3) なるべく歩いたり、運動する。
これだけです。
(2)のところで「えー」という人が多いんですが、慣れればどうってことないです。人間はもともと一日二食だったのです。それが産業革命以後、三食以上食べてカロリーをたくさん摂取し、馬車馬のように働くことを資本家から強要されるようになったのが、現代社会習慣としていまだに続いているだけですから。
慣れると、お腹になにか入っていると気持ち悪くて寝られないようになります。お腹をからっぽにして眠りにつき、翌日中にしっかり食べる。
(3)が一番実行が難しかったですね。いまだになかなか運動量を増やせていません。5キロ落としたのは全部脂肪分です。今後の目標は、筋肉量を増やして同時に脂肪を落としていくことです。ほとんど家にいて、パソコンに向かっている生活なので、意識的に運動しないとなかなか運動量は増えません。だからプールに通っているんですが、これも週に二回くらいが限度です。それでもやらないよりはましです。
この半年くらいの間、自分へのプレッシャーとして「ラーメン断ち」を決行しました。
私は毎日ラーメンでもいいくらいラーメン好きなんですが、体重が60キロを切るまではラーメンを口にしないと決めたのです。
それが昨日、ようやく60キロを切ったので、今日の昼、ラーメンを食べてきました。ささやかなお祝いです。ひとりで孤独に、でしたが。
今後も「60キロを切っていないときはラーメンを食べられないルール」を自分に適用しつづけるつもりです。
コミュニケーションの目的は静けさの質と奥行き
NVC(非暴力コミュニケーション)のトレーナーであり、コロンビア人のホルヘ・ルビオによる集中ワークショップが始まりました。
おもしろすぎる。私にとってしっくり来る言葉がたくさんあって、わくわくします。
たとえば、
「コミュニケーションの目的は静けさ。静かさの質と奥行きが大切。おたがいになにもいわなくてもいい状況を作るために、言葉を使う」
というようなことをいうわけです。これ、普通はなかなか意味がわかりませんよね。でも、ホルヘのセッションを受けながらこれをいわれると、すとーんと来るんです。とくに日本人的資質に触れるものが多くあるような気がします。
NVCトレーナーのセッションは、これまでもどれもすばらしいものでした。いずれも心に深く残っています。ホルヘのものもおそらくそうなることでしょう。
現代朗読協会はNVCの理念を実践しながら運営されていますし、現代朗読という表現もNVCととても親和性が高いものです。げんに私は「沈黙の朗読」という朗読パフォーマンスのシリーズを作っていますが、まさに芸術表現が非暴力とつながっているありさまを具現化したいと思ってやっているものです。
私が学んだことを、今後いくらかでも皆さんと共有できれば、こんなにうれしいことはありません。
おもしろすぎる。私にとってしっくり来る言葉がたくさんあって、わくわくします。
たとえば、
「コミュニケーションの目的は静けさ。静かさの質と奥行きが大切。おたがいになにもいわなくてもいい状況を作るために、言葉を使う」
というようなことをいうわけです。これ、普通はなかなか意味がわかりませんよね。でも、ホルヘのセッションを受けながらこれをいわれると、すとーんと来るんです。とくに日本人的資質に触れるものが多くあるような気がします。
NVCトレーナーのセッションは、これまでもどれもすばらしいものでした。いずれも心に深く残っています。ホルヘのものもおそらくそうなることでしょう。
現代朗読協会はNVCの理念を実践しながら運営されていますし、現代朗読という表現もNVCととても親和性が高いものです。げんに私は「沈黙の朗読」という朗読パフォーマンスのシリーズを作っていますが、まさに芸術表現が非暴力とつながっているありさまを具現化したいと思ってやっているものです。
私が学んだことを、今後いくらかでも皆さんと共有できれば、こんなにうれしいことはありません。
2011年11月18日金曜日
プール、ラーメン、NVCのホルヘ・ルビオ
震災後に5キロも増量してしまった体重を、半年かけてようやく減量に成功。継続的に体重を維持しつつ、しかしもう少し筋肉量を増やして基礎代謝をあげ、脂肪を減らしたいので、せっせと運動をしようと思っています。なので、油断せずにさっそくプールに行って泳いできました。
ひさしぶりだったにもかかわらず、意外に距離を稼ぐことができました。小牧、名古屋や実家との往復、東北ツアーなど、このところ移動が多く、身体を動かす機会が多かったからかもしれません。
調子に乗って、半年以上「断って」いたラーメンを、自分に許可しました。
とりあえず近場で、東松原の〈哲麺〉へ。豚骨醤油味で。
いやー、おいしかったなあ。日常的に食べているとこれほど感動することはないんでしょうね。たまに食べるから、おいしいものもおいしいんでしょう。おいしいものに感動したいなら、平素は質素な食事をすべし、ということかも。
夜はNVCのトレーナーでコロンビア人のホルヘ・ルビオが来ました。ケンちゃんが彼の招聘をプッシュしていて、はるのさんを中心に招聘のためのチームを作って準備していたのです。それがついに実現したというわけです。今夜はそのコアメンバーとホルヘとの顔合わせ的なセッションでした。
ケンちゃんから聞いてはいましたが、ホルヘは本当にNVCの深いレベルを見せてくれるトレーナーで、しかも自分の言葉で語ってくれるので、私にはとても腑に落ちることが多かったです。彼の語るNVCのストーリーは、私のニーズにつながる美しさを感じました。音楽的であり、沈黙を大切にするコミュニケーションです。これは日本人の資質にもまっすぐにつながるものだと思いました。
明日と明後日は羽根木の家で合宿がおこなわれます。また、来週の月曜日から水曜日までワークショップがみっちりと開催されます。この学びの機会がとても楽しみです。
ひさしぶりだったにもかかわらず、意外に距離を稼ぐことができました。小牧、名古屋や実家との往復、東北ツアーなど、このところ移動が多く、身体を動かす機会が多かったからかもしれません。
調子に乗って、半年以上「断って」いたラーメンを、自分に許可しました。
とりあえず近場で、東松原の〈哲麺〉へ。豚骨醤油味で。
いやー、おいしかったなあ。日常的に食べているとこれほど感動することはないんでしょうね。たまに食べるから、おいしいものもおいしいんでしょう。おいしいものに感動したいなら、平素は質素な食事をすべし、ということかも。
夜はNVCのトレーナーでコロンビア人のホルヘ・ルビオが来ました。ケンちゃんが彼の招聘をプッシュしていて、はるのさんを中心に招聘のためのチームを作って準備していたのです。それがついに実現したというわけです。今夜はそのコアメンバーとホルヘとの顔合わせ的なセッションでした。
ケンちゃんから聞いてはいましたが、ホルヘは本当にNVCの深いレベルを見せてくれるトレーナーで、しかも自分の言葉で語ってくれるので、私にはとても腑に落ちることが多かったです。彼の語るNVCのストーリーは、私のニーズにつながる美しさを感じました。音楽的であり、沈黙を大切にするコミュニケーションです。これは日本人の資質にもまっすぐにつながるものだと思いました。
明日と明後日は羽根木の家で合宿がおこなわれます。また、来週の月曜日から水曜日までワークショップがみっちりと開催されます。この学びの機会がとても楽しみです。
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